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徳川家康の対外政策ブレーン・英国人ウイリアム・アダムス(三浦按針)とは?

「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第7回】


徳川家康は外国人を側近に登用し、外交や航海術の向上にその知見を活用した。その名はウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステン。知られざる彼らの事績に迫る! 


 

関ヶ原合戦のあった1600年にオランダ船で来日。
家康の信頼を得て、三浦按針の日本名を賜り、貿易、測量、造船、軍の装備等の指導にあたった。銅像は長崎県平戸市にある。

 家康(いえやす)には、外交顧問として2人の外国人ブレーンがいた。主に家康の対外政策を指導した。それが、イギリス人のウイリアム・アダムス(1564~1620)とオランダ人のヤン・ヨーステン(1556~1623)である。中でもアダムスは、三浦按針(みうらあんじん)という日本名まで持った。

 

 アダムス(航海長)とヨーステン(航海士)は、オランダのロッテルダムから「リーフデ号」で出港し東洋を目指した。関ヶ原合戦に先立つ慶長5年(1600)3月、豊後国・臼杵(ぶんごのくに・うすき/大分県)に漂着した。出港の際に110人だった乗組員は24人に減っていた。

 

 この外国人漂着は、長崎奉行から大坂の豊臣秀頼(とよとみひでより)に報告された。5大老首座にいた家康が指示して、この外国人らを大坂に護送させ、船も回航させた。外国人を引見した家康は、様々な事実を知った。ヨーロッパ人にも紛争があり、今まで日本で宣教を繰り返してきたイエズス会などカトリック教徒(ポルトガル、スペインなど)と、対立するプロテスタント教徒(オランダ、イギリスなど)の異なる立場である。こうした事実を、臆せずに堂々と主張するアダムスやヨーステンを、家康は気に入った。そればかりか「彼らは信頼できる」と認めた。

 

 結果として、家康は彼らを江戸に招いた。そして駿府に入ったところで、アダムスを外交顧問として雇い、相模国三浦郡に220石の領地を与えた。また、同じく外交顧問としたヨーステンも江戸に屋敷を与えた。2人とも後に日本人女性と結婚して子どもを作っている。アダムスが「三浦按針」と名乗ったのは、「三浦」に領地を持ったことと、航海士であったことから、それを意味する「按針」としたという。またヨーステンが住んだ場所は、その名前「ヤン・ヨーステン」が住むところとして「ヤ・ヨ・ス」が転化して「八重洲(やえす)」と呼ばれるようになったという。

 

 三浦按針・アダムスは、他の外国人との通訳を任され、幾何学・航海術などの外国知識を家康とその側近に伝えた。アダムスは、長い期間を日本に住み(イギリスに戻りたい意向を伝えても、家康が承知しなかったこともあったが)、慶長19年(1614)には、イギリス東インド会社との交易にも、力を尽くしている。

 

 しかし、家康没後は重用させることもなく失意のうちに、元和6年5月、平戸で死去。またヨーステンも帰国希望を持ち、元和9年にバタビアに渡ったが、実現しないまま日本にも度る途中で船が難破して溺死した。

 

 その後の江戸幕府は、鎖国施策を採るようになり、アダムスやヨーステンのような外国人が幕閣に重要な地位を占めることは皆無となった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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