村上水軍で唯一大名となった来島通総の「信用」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第83回
■秀吉に「信用」された来島通総

村上水軍が本拠地としたしまなみ海道(愛媛県今治市)。この海域は、昔から鳴門海峡、関門海峡と並ぶ海の難所として知られる。
来島通総(くるしまみちふさ)は村上水軍(むらかみすいぐん)の一族であるものの、本拠地の来島を姓として活動したため、水軍のイメージもなく、一般的にあまり知られていない戦国武将だと思います。
しかし、来島家は、現在の広島と愛媛をつなぐしまなみ海道付近の島々を本拠地とした、村上水軍の三家の一つとして瀬戸内海で活躍しています。
瀬戸内海における勢力争いが激化していく中で、他の因島(いんのしま)村上家や能島(のしま)村上家は毛利家に従属し、家臣となっていきましたが、来島家だけは独立した大名として存続できました。
これは通総たち来島家が得た「信用」によるものだと思われます。
■「信用」とは?
「信用」とは辞書によると「主にその人の実績や成果を元に評価する事」を指します。つまり、過去に積み上げてきたものに対して信任を与えるものです。
一方でよく混同される「信頼」は「その人の人柄や態度、立ち振る舞いなど人間性を評価する事」を指します。今後の保証がされていない状況において、安心して任せられる事を指します。
これまでの結果など、信じるために条件を伴うのが「信用」で、人間性など感覚的でほぼ無条件に信じるのが「信頼」となります。
通総は織田政権の中国方面の司令官だった秀吉の元で、「信用」を積み重ねていきました。
■来島村上家の事績
来島家は、芸予(げいよ)諸島を拠点に活動した村上水軍の一族です。村上家は河内源氏の村上定国が平治の乱の後に、越智大島に土着したのが始まりという説がありますが、詳細は不明です。
村上家は能島を本拠とする能島村上家と、因島を本拠とする因島村上家、そして来島を領有する来島村上家の三家に大きく分かれています。
戦国時代のころになると、能島村上家は大内家との繋がりを強め、因島村上家は安芸国の小早川家と、来島村上家は伊予国の河野家と、それぞれが独自に行動するようになります。
父通康は伊予国守護の河野家から正室を迎えており、河野家の重臣として外交や内政に深く関与して、勢力維持に貢献しています。
1555年の厳島の戦いでは、水軍を派遣して毛利家を支援しています。通康の娘が毛利元就(もうりもとなり)の四男穂井田元清(ほいだもときよ)の正室に迎えられたことで、来島家は毛利家とも縁戚関係を持つようになります。
1581年に河野家の当主通宣(みちのぶ)が死去すると、元就の曾孫にあたる通直(みちなお)が養子とされます。この時、家督を継承していた通総は、河野家から独立するような動きを取り始めます。
河野宗家の血を引く通総が、河野家の家督を脅かす存在として警戒されるようになった事が原因の一つだと言われています。
その頃から、織田家の中国方面司令官である秀吉から調略を受けるようになり、1582年に織田家に寝返ります。
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