家康が高く評価した藤田信吉の「交渉力」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第81回
■上杉景勝を支えた藤田信吉の「交渉力」

新潟県東蒲原郡阿賀町にあった津川城の門跡。津川城は、会津に転封となった上杉景勝に代わって藤田信吉が城代を務めた。津川への配置に、信吉は不満を感じていたともいわれる。
藤田信吉(ふじたのぶよし)は北条家に始まり、武田家、織田家など従属先を転々とした上、関ヶ原の戦いで上杉家を出奔し、徳川方に寝返ったことから不義の武将というイメージが強いと思います。
しかし、信吉は北条氏邦(ほうじょううじくに)による兄の暗殺や、武田家の滅亡、本能寺の変など外的要因により、主君を変えざるを得ない状況に追い込まれていました。
上杉家では、新発田重家(しばたしげいえ)の討伐や佐渡国の平定、小田原征伐などで活躍し重用されていましたが、関ヶ原の戦いにおいては、上杉家を出奔せざるを得ない状況に追い込まれています。
これは調略や外交を得意とした信吉の「交渉力」に原因があったと思われます。
■「交渉力」とは?
「交渉力」とは辞書などによると、「自分と相手の利害を調整し、お互いが納得できる着地点を見出し、合意を得るまで話し合う力」とされています。
双方にとって、納得できる結果に至るための戦略的なコミュニケーション力を指し、良好な人間関係を築きながら、長期的な関係性を構築し維持することと言えます。
そのためには柔軟性や理解力に加え、客観的に状況を冷静に判断し、感情的にならない論理的思考力も重要となります。信吉は秀でた武力と合わせて、「交渉力」を駆使して上杉家を支えていきます。
■藤田家の事績
藤田家は小野篁(おののたかむら)の子孫を称する猪俣政行が、武蔵国榛沢郡藤田郷を領有し、藤田を名乗ったことが始まりとされています。藤田家は源平合戦において源氏方として活躍し、藤田能国(ふじたよしくに)は源頼朝の御家人となっています。
室町時代になると、鎌倉府の奉公衆となり鎌倉公方家に仕え、その後、関東管領山内上杉家の家老となり繁栄します。北条家が勢力を拡大してくると、上杉憲政(うえすぎのりまさ)の重臣として戦うものの、1546年の河越の合戦で大敗すると、北条氏康に従属するようになります。当主の藤田泰邦(やすくに)が死去すると、氏康の五男氏邦が娘婿として藤田家を継承することになります。
分家筋で、沼田城代を務める用土家に生まれた信吉は、藤田氏邦に仕えていましたが、兄の重連が急死した事あたりから、氏邦との軋轢が強まります。氏邦が沼田城を支配するために重連を暗殺したのが原因という説もあります。
信吉は真田昌幸(さなだまさゆき)の調略に乗る形で、武田家に寝返ります。勝頼(かつより)の兄海野竜宝の娘を娶(めと)り、氏邦に対抗するように藤田を名乗ります。
1582年に信長によって武田家が滅ぼされると、滝川一益(たきかわかずます)に仕えますが、本能寺の変による混乱の中で、信吉はわずかな家臣を連れて上杉家へ亡命しています。信吉は上杉景勝(うえすぎかげかつ)の下で重用されていきます。
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