秀吉の天下統一を支えた豊臣秀長の「影響力」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第84回
■天下統一の影の功労者豊臣秀長の「影響力」

奈良県大和郡山市箕山町に立つ秀長の墓所である大納言塚。秀長は天正19年(1591)1月22日に郡山で没した。
豊臣秀長(とよとみひでなが)は、秀吉の弟として有名ですが、その活躍ぶりについては一般的にあまり知られていない武将だと思います。
秀長は山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなど主要な戦に参加し、四国征伐では総大将として、九州征伐でも一方の指揮官として活躍しています。
加えて、内政や外交においても千利休(せんのりきゅう)とともに秀吉を支えており、統治が難しいと言われてきた大和国や紀伊国を硬軟織り交ぜながら治めています。
この秀長が死去した直後から、政権内部での粛正が始まったことからも、その「影響力」は大きかったように思われます。
■「影響力」とは?
「影響力」とは辞書によると「自らの言動によって、他者に働きかけ、考えや動きを変えさせるような力」とされています。
現代でも、組織内において成果を上げるために、周囲の者から協力を得る時に必要な力です。リーダーシップを発揮する際に必要な力とも言われています。一方で「影響力」を持つ事で、他者からの妬みや嫉みを受けるケースもあります。また、その言動一つ一つが周囲を巻き込むため、常に慎重さが求められます。
秀長が政権の内外に及ぼす「影響力」は豊臣政権の要だったため、その喪失は不安定化を招きました。
■豊臣秀長の事績
秀長は秀吉の異父弟と言われていますが、同父弟という説もあり詳細は不明です。その出自も秀吉と同様に不明な点が多く、尾張国愛知郡中村にて出生したとされています。
秀吉が先に織田家の中で出世し、その後家臣として呼び出されたと言われています。1573年の小谷城(おだにじょう)の戦いの後に、秀吉と共に長浜城に入ります。このころに、藤堂高虎(とうどうたかとら)を家臣として取り立てています。
秀吉が中国方面の司令官となると、秀長は山陰方面の指揮官とされるほど厚く信頼される存在になっています。その後毛利攻めの功績により、但馬国(たじまのくに)7郡10万5000石などを領しています。
山崎の戦いと賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの後になると、播磨国と但馬国の二ヵ国の大名となります。さらに、1585年の紀州征伐での活躍を賞されて紀伊国・和泉国64万石を得て、後の御三家紀州徳川藩の居城としても使われた和歌山城を建てています。
続く四国征伐では、総大将を務めて長宗我部(ちょうそかべ)家を降すと、大和国・紀伊国73万石となり、大和・紀伊の大納言と呼ばれるまでになります。
九州征伐では日向方面の総大将として、攻略を任されています。しかし、1590年ごろから体調を崩し、1591年に死去してしまいます。
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