秀吉の天下統一を支えた豊臣秀長の「影響力」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第84回
■秀吉の実弟・側近としての「影響力」
秀長は主に秀吉の軍事・内政面で補佐し、不在時には居城を守るなど重要な役目を任されていました。
播磨国も領するようになったためか、山崎の戦いでは黒田孝高(くろだよしたか)と天王山の守備につき、九州征伐では秀長軍の先鋒を孝高が務めるなど、両者に一定の繋がりがあったことが伺えます。
また、秀長は軍の指揮官としてだけではなく、小牧長久手の戦いでは外交官として織田信雄(おだのぶかつ)との講和交渉を担うなどの活躍を見せています。九州征伐においても救援を求めに来た大友宗麟(おおともそうりん)の取次を行い、一軍の総大将として指揮を取りながら、足利義昭(あしかがよしあき)たちを通じて島津家との講和交渉を進めています。
こうして秀長自身が「公儀の事は自分に、内々のことは利休に」と伝えるほど、豊臣政権で大きな発言力を有する存在となっていました。
秀長は豊臣一門の筆頭であり、豊臣政権のナンバー2でもあったため、その内外における「影響力」は秀吉に匹敵するほどであったのかもしれません。
■秀長没後に起きた混乱と粛正
1591年2月に、秀長が死去すると豊臣政権内で立て続けに事件が起きます。
同年4月に、豊臣家の内々を任されていたと言われる利休が、突如として罪を得て切腹となり、一条戻橋にて晒し首にされます。
豊臣政権をこれまで表裏で支えてきた有力者二人が立て続けにいなくなりました。
1595年5月に、秀長の跡を継いだ甥で娘婿の豊臣秀保(ひでやす)が急死すると、大和大納言家は嗣子(しし)がいなかったため、そのまま取り潰しとなっています。そして、同年6月には、二代目関白となった豊臣秀次(ひでつぐ)に突如として謀反の疑いが持ち上がり、8月に蟄居(ちっきょ)させられると、切腹してしまいました。
秀長は甥の秀次に生前、目をかけていたようで、小牧長久手における秀次の失態を取り戻せるように、紀伊征伐や四国征伐などで支えています。そのため秀次は、秀長が病に伏すと談山(たんざん)神社に赴き、回復祈願をするほど良好な関係にあったようです。
この事件で秀次の血縁者はほぼすべて処刑され、秀長とも関係の深かった前野長康(まえのながやす)や木村重茲(きむらしげこれ)たち古参の家臣も切腹となります。
秀長の死後、関係の深かった者たちの多くが排除されていきました。
■強力な「影響力」の喪失が招く混乱
秀長は天下人秀吉の近親者として、軍事と内政の両面で支えてきた実績と経験から、政権に強力な「影響力」を有する存在でした。
そのため秀長が死去すると、その「影響力」を排除するように、多くの者たちが立て続けに処罰されていきました。
現代でも、トップにも意見できるほど「影響力」を持っていた人材が退職すると、組織内で混乱が始まることは多々あります。
もし秀長が同年代の家康ほど長生きしていれば、豊臣政権の命脈も長く続いたのかもしれません。
なお、秀長は蓄財を好む傾向にあったようで、秀吉からも忠告を受けています。死後の郡山城には金銀で溢れていたという逸話が残されています。
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