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毛利秀元の「気概」が生んだ家中対立

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第80回

■両川としての「気概」に溢れた毛利秀元

長府毛利邸(山口県下関市長府惣社町)に建つ毛利秀元公像。有志を募り2016年に建てられた。

 毛利秀元(もうりひでもと)は、関ヶ原の戦いで、南宮山(なんぐうさん)から動くことなく撤退したため、頼りないイメージを持たれている戦国武将ではないかと思います。

 

 しかし、10代にして文禄の役において渡海して戦闘に参加しており、慶長の役でも輝元の名代として毛利軍を率いて各地を転戦しています。

 

 関ヶ原の戦いにおいては、毛利家重臣たちの邪魔もあり、兵を動かせませんでしたが、大坂城に戻ると立花宗茂(たちばなむねしげ)や島津義弘(しまづよしひろ)たちと共に、徹底抗戦を主張したと言われています。

 

 秀元は若いながらも戦国時代の武将としての「気概」に溢れていましたが、それが逆に毛利家内部の争いを生むことになります。

 

■「気概」とは?

 

「気概(きがい)」とは辞書によると「強い意志を持って困難に立ち向かう、具体的な行動に結びつくような強い気持ち」とされています。

 

 単なるやる気や元気だけでなく、困難な状況に直面しても怯まず、信念を貫き通そうとする精神的な強さや覚悟が強調されます。「気骨」は信念や正義を貫く意志といった、精神的な側面が強調される一方で、「気概」は行動的なニュアンスが強い言葉です。

 

 秀元は「気概」に溢れた行動を取ることで、時として毛利家と対立していきます。

 

■毛利秀元の事績

 

 毛利家は、源頼朝の側近であった大江広元(おおえのひろもと)の四男季光(すえみつ)が相模国愛甲郡毛利荘を本貫とし、季光の子毛利経光(つねみつ)が安芸国吉田荘を得たのが始まりとされています。

 

 毛利元就(もとなり)の時代には、中国地方の覇者と呼ばれるまで勢力を拡大しています。秀元は、この元就の四男で穂井田を名乗った元清の次男として生まれました。元清の正室が来島村上家の通康の娘だったため、秀元は来島通総(くるしまみちふさ)の甥にあたります。

 

 秀元は1584年に、継嗣のいない輝元(てるもと)の養子として毛利宗家に迎え入れられたと言われています。

 

 1592年には秀吉と面会し、「秀」の字を与えられて秀元と名乗ります。豊臣政権からも正式に毛利家の後継者と認められ、その後、豊臣秀長の娘を正室に迎えています。

 

 ただし、輝元に実子秀就(ひでなり)が生まれると、後継者の座から降ります。

 

 その一方で、慶長の役では輝元の代理として毛利隊3万の総大将となり、黄石山城(こうせきさんじょう)の戦いや稷山(しょくさん)の戦い、蔚山(うるさん)城の戦いなどで活躍しています。

 

 1599年には独立した大名として、長門国を中心に約18万石を与えられたとされています。この領地の振り分けの際に、毛利家中で調整ができなかったため、徳川家康の仲介を受けることになり、その後の状況にも影響を与えることになります。

 

 関ヶ原の戦いでは、南宮山の毛利本隊として陣を構えていたものの、吉川広家(きっかわひろいえ)や福原広俊(ふくはらひろとし)たちの内通により、戦いに参加しないまま退却しています。

 

 戦後処理における毛利家の大幅な減封と同時に、秀元も改易となります。その後、輝元によって改めて長門国に3万8000石、または6万石で分知されます。

 

 輝元からは一門衆としての貢献を期待されますが、秀元の「気概」は家中で対立や軋轢(あつれき)を生んでいきます。

次のページ■藩政におけるリーダーとしての「気概」

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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