岡本大八事件で切腹した有馬晴信の「執念」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第77回
■旧領回復に対する有馬晴信の強い「執念」

長崎県南島原市北有馬町戊に残る日野江城本丸跡。日野江城は、鎌倉時代の建保年間に建てられ、有馬氏が代々居城としたといわれる。
有馬晴信(ありまはるのぶ)は、ドン・プロタジオという洗礼名を持ち、天正遣欧(てんしょうけんおう)少年使節をローマに派遣したキリシタン大名として有名ですが、それ以外のことは一般的にはあまり知られていないと思います。
晴信は、大友家や龍造寺家などに従属しながら勢力の維持に努めており、島津家が北上してくると内通して、沖田畷の戦いで龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を敗死させています。その後、豊臣政権の九州征伐や関ヶ原の戦いでも優れた政治力を発揮し、一族の存続に貢献しています。
しかし、江戸時代に起きた岡本大八(おかもとだいはち)事件によって、改易および切腹となります。これは旧領回復に対する晴信の「執念」の強さが原因かと思われます。
■「執念」とは?
「執念」とは辞書によると「ある一つのことを深く思いつめる心。執着してそこから動かない心」とされています。肯定的な意味合いとして、「困難な状況でも諦めずに努力し続ける」という成功への強い意欲を表す場合にも使われます。
一方で「恨みや憎しみなどを、いつまでも忘れずに抱き続けること」というように、合理的な判断を欠き、一つの考えに固執し続ける様子を表す場合にも用いられます。
晴信は、どちらの意味でも捉えられる強烈な「執念」を見せます。
■有馬家の事績
有馬家は諸説ありますが、肥前国(ひぜんのくに)を出自とした国人とされています。鎌倉時代に高来郡有馬庄の地頭となり、有馬を名乗るようになり、南北朝時代には南朝の菊池家に従っていたこともあるようです。
晴信の祖父晴純(はるずみ)のころに島原半島を支配下におき、貿易により多大な利益を得ています。この頃からポルトガルとの南蛮貿易も始めています。龍造寺家とは一進一退の攻防を続ける一方で、近隣の大村家に次男の純忠(すみただ)を養子として送り出すなど勢力拡大を図っています。
その後、龍造寺家や大友家など周辺勢力の圧迫により、有馬家の支配領域は縮小していきます。1563年に丹坂峠(にさかとうげ)の戦いで龍造寺家に敗れ、肥前国藤津・杵島(きしま)・彼杵(そのき)の3郡を失います。
1580年頃に洗礼を受けてキリシタンとしての活動を始めると、1582年に大友宗麟(おおともそうりん)たちと天正遣欧使節を派遣しています。
大友家の弱体化が進むと、龍造寺隆信に従属するようになります。しかし、薩摩の島津家が北上してくると、これに内通し、沖田畷(おきたなわて)の戦いで隆信を討ち取っています。
豊臣政権の九州征伐が起きると、秀吉に臣従し、島津攻めに加わり、肥前国日野江4万石の支配権を認められています。さらに、関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍として、小西家の肥前宇土城攻めに加わるなど、優れた政治力を見せています。
晴信は大きな加増もなく日野江4万石の安堵を受けると、それに満足せずに海外貿易と旧領3群の回復に「執念」を見せるようになります。
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