岡本大八事件で切腹した有馬晴信の「執念」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第77回
■ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件
晴信は徳川幕府の下でも海外との貿易に強い関心を示しています。幕府の許可の下で、当時の台湾に船を派遣して貿易の可能性を調査させています。
1608年に、晴信が派遣した朱印船が寄港したマカオにて騒乱を起こし、当地の総司令官によって鎮圧され、多くの死傷者が出る事件が起こりました。1610年、晴信は長崎奉行の長谷川藤広(ふじひろ)にそそのかされるかたちではありましたが、長崎に寄港していたポルトガル船ダ・グラサ号に報復を図ります。
ダ・グラサ号は戦闘の末に自爆し炎上、ポルトガル側は200名を超える死者を出しました。日本側は敵船に乗り込み、ポルトガル人船主を討ち取ったと言われています。
この行為には、ポルトガルへの復讐という意味がある一方で、龍造寺家の領地とされている旧有馬領の回復への強い期待があったようです。
戦後に旧領肥前3郡の回復を願い出たようですが、実現されませんでした。
■岡本大八事件で見せた旧領への「執念」
旧領回復への強い「執念」は、ついに晴信の政治感覚を鈍らせてしまったのかもしれません。
晴信は「家康が有馬家の旧領回復を検討している。その仲介を本多正純に依頼するために仲介料が必要である」という本多家の岡本大八の虚偽報告を信じてしまいます。そして、6,000両という多額の金銭を渡してしまいます。また、大八側も用意周到に家康からの朱印状を偽造していたようです。
しかし、恩賞の報せが来ない事に痺れを切らした晴信が、正純に直接問いただした事で、幕府を巻き込んだ詐欺事件へと発展します。これは幕府内部の権力争いの序章とも言われています。
大八は拷問の末に自白し、朱印状の偽造などの罪を認めて火刑に処せられます。
一方で、晴信も旧領回復のための収賄行為に加えて、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件での長谷川藤広の対応に不満を抱き、私怨から藤広暗殺を計画していた事が暴かれ改易となります。
その後、切腹を命じられます。一説には、キリシタンであったため斬首を選んだともいわれています。飽くなき晴信の「執念」は、有馬家取り潰しを招くことになりました。
ただし、嫡男の直純が家康の養女を妻にしていたこともあり、改めて有馬家の家督を継承し、日野江4万石を拝領しています。
■強すぎる「執念」が招く破滅
晴信は状況に合わせて大友家や龍造寺家、島津家など従属先を変えながら、最終的には中央の豊臣家に通じて、御家の存続に成功していた点で有能な戦国武将でした。
しかし、旧領回復への「執念」に駆り立てられるように、なりふり構わない行動に出た結果、一時的ながら御家取り潰しとなってしまいます。
現代でも「執念」が強すぎるあまりに、判断を誤って取り返しのつかない事態になることが多々あります。
もし晴信が、早々に旧領を諦めていれば、嫡子直純が徳川家の娘婿となっていたこともあり、譜代並みの立場を得ていたかもしれません。
ちなみに、直純は領内でのキリシタン弾圧に嫌気がさし、1614年に転封を願い出て、日向国延岡に加増転封された事により、島原の乱の当事者にならずに済んでいます。
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