豊臣秀吉の「残酷すぎる所業」 妻子まで処刑された秀次は、本当に「悪人」だったのか?
日本史あやしい話23
豊臣秀吉の甥・秀次(ひでつぐ)は「殺生関白」とも呼ばれ、悪逆非道な人物であったとされる。1595年に「謀反の疑い」で切腹を命じられ、さらに妻子、侍女や乳母にいたるまで40名近くが非情にも処刑された。彼らはことごとく斬首にされて遺体は一つの穴に放り込まれ、さらに秀次の首を納めた塚には「秀次悪逆」と彫られた石塔が建てられたという。しかし、そこまでされるほど、秀次は「悪逆」な人物だったのだろうか?
■秀吉の謀略に振り回された秀次の悲運

羽柴秀次(月岡芳年)
豊臣秀次とは、いうまでもなく秀吉の甥である。後継のいなかった秀吉にとっては、後事を託すべき大事な親族の一人であった。
幼少時には、浅井長政の家臣・宮部継潤(みやべけいじゅん)を調略するという秀吉のために、その養子となって宮部吉継を名乗ることになっている。さらに畿内の有力者・三好康長の養嗣子として三好信吉に改名。
天正14(1586)年には豊臣の本姓まで下賜。秀吉と淀殿の間に生まれていた鶴松が病を得て死の淵に着くや(数え3つで死亡)、秀吉の養嗣子(ようしし)とするなど、秀吉の政治の道具として振り回されるばかりの人生であった。
それでも、秀吉の後継として関白の座まで譲られた上、百万石の大大名となったわけだから、それなりに幸せだったというべきだろう。
ところが、1593年、淀殿が再び懐妊して秀頼(ひでより)が生まれるや、状況が一変する。秀吉が秀頼を溺愛するあまり、それまで後継者の座に座らせていた秀次を引きずり下ろし、実の子である秀頼を後継の座に据えようと、虎視眈々とその機会を伺っていたからである。
文禄4(1595)年のこと、突如、秀次が謀反を企てていると騒ぎ立てられた。一説によれば、讒言(ざんげん)したのは石田三成らであったという。
■39名もの遺体を、ひとつの穴にまとめて放り込んだ
ともあれ、弁明しようと秀吉のいる伏見へと向かったものの、拝謁さえ許されなかった秀次。高野山に登って秀吉の命じるまま出家したものの、とうとう賜死(しし)の命が下ってしまった。
この哀れな秀次に先立って、まずは山本主殿助、山田三十郎、不破万作らの小姓衆が殉死。その際、秀次自らが介錯にあたったという。そして秀次自身は、雀部(淡路守)重政の介錯により切腹。享年28であった。
秀次は亡くなった。これで事態が収拾されるかと思いきや、秀吉の暴走は止まらなかった。秀次の妻子はもとより、侍女、乳母に至るまでことごとく処刑するという暴挙に出たのである。その数、39名にも及んだというからおぞましい。彼らをことごとく斬首した挙句、遺体を一つの穴にまとめて放り込んだとか。
その上に秀次の首を納めた石櫃(いしびつ)を置き、塚を築いて石塔を建て、その碑銘に「秀次悪逆」と彫ったという。秀次が極悪人だったから死を賜ったとでも言いたかったのだろうが、その係累まで根絶やしにしたというのは、あまりにも非情であった。秀次がいたその痕跡までことごとく消し去ろうとした秀吉の心根の悪さは、とても許されるものではない。
「悪逆」というべきは、秀次ではなく秀吉ではないだろうか。天下統一を成し遂げた秀吉、鬼才であったことは間違いないが、少なくとも彼のことを偉人あるいは英雄などと褒め称えることだけはして欲しくないのである。
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