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『どうする家康』ラスボス・淀殿! なぜか「悪女」と言われる“不憫すぎる理由”とは?

日本史あやしい話21


父・浅井長政(あざいながまさ)を殺した挙句、母まで死に追いやった秀吉、そこに嫁がされた茶々(淀殿/よどどの)。無念の思いを心にしまい込んで、夫亡き後、息子・秀頼(ひでより)の後見人として尽力。家康と対峙したものの力尽き、ついに大坂城で秀頼と共に自害したとのお話は、よく知られるところである。その彼女、強欲なところが何もなかったにもかかわらず、「悪女」とまで蔑まれることも多い。それはいったい、なぜなのだろうか? 


 

■「日本三大悪女」とは?

淀君(市川舛若、和睦論難波戦記)

「日本三大悪女」というのをご存知だろうか? いったい、いつ、誰が言い始めたのか定かではないが、おおよそのところでは、北条政子・日野富子・淀殿の3人の名を挙げる向きが多いようである。

 

 うち北条政子は、源頼朝の死後「尼将軍」と呼ばれ、実家の北条家を後ろ盾として実権を握り続けた女性。夫に愛人(亀の前)ができたと知るや、その屋敷を襲撃して壊してしまったというから、かなり嫉妬深い女性だったのだろう。

 

 以降、夫に妾(めかけ)を持つことを頑なに拒んだことで、結果として子孫が途絶えてしまった。その意味では、悪女の部類に入れて良いのかもしれないが、程度としては可愛いものである。

 

 次なる日野富子の悪女ぶりは、それよりは少々、程度が上と言えるかもしれない。室町幕府8代将軍・足利義政の正妻で、最初に生まれた子が夭逝(ようせい)するや、「側室に呪い殺された」と言いがかりをつけて、側室の多くを流罪や追放に処したとか。

 

 おまけに、応仁の乱の際には敵味方の区別なく、武器や兵糧を高利で貸しつけて私腹を肥やしたというほど強欲だったというから、史実だとすれば、悪女の部類に入れるべきだろう。

 

 それでも、中国の「悪女」たち、たとえば夫の心を奪った女の手足をもぎ取って厠に放り込んだ呂后(りょこう)や、権力に執着する余り、息子や娘、姉まで惨殺した則天武后(そくてんぶこう)などに比べれば、あまりにも粒が小さい。

 

■「悪女」の定義とはなにか?

 

 もちろん、「悪女」の定義によってその是非は異なるから、一言で言い切ることなどできない。となれば、まずはその定義から見ておくべきだろう。

 

「広辞苑」をひもとくと、悪女とは「性質のよくない女性」あるいは「顔かたちの醜い女」とある。信頼のおける辞書であるが、この語についてはあまり納得できない。

 

 むしろ、「欲望の赴くまま悪行を為す強欲な女」や、「美貌で男を惑わして破滅に導く魔性の女」こそ、悪女と呼ぶべきだろう(詳細は藤井勝彦著『図解ダーティヒロイン』新紀元社刊を参照)。その定義に照らしてみれば、北条政子、日野富子の両名とも、その範疇に入れるべき女性なのかもしれない。

 

 それでも、どうしても納得できないのが、三大悪女の一人として、淀殿の名までもが盛り込まれていることである。彼女がなぜ悪女の烙印を押されなければならないのか、どうしても合点がいかないのだ。それを検証するためにも、言い伝えられてきた彼女の悪女ぶりを見てみることにしたい。

 

■不運すぎるお市の方とその3人の娘、茶々・初・お江

 

 淀殿(茶々)とは、言うまでもなく豊臣秀吉の側室(正室だったとも)で、秀頼の母として知られる女性である。父は浅井長政、母は信長の妹・お市の方である。長政が信長に攻められて自害した後、母は3人の娘(茶々、初、お江)とともに生き延びて織田家に預けられている。

 

 お市の方は、兄・信長が亡くなるや、今度は柴田勝家に嫁がされ、勝家が賤ヶ岳の戦いに破れると共に自害することになった不運な女性であった。残された3人の娘らは秀吉の元に送り込まれ、政争の道具として使われることになる。「悲運の連鎖」というべきか。

 

 ともあれ、その後の動向を見てみよう。最初、三女のお江が、織田家家臣・佐治一成のもとに嫁がされた。しかし、しばらくすると、秀吉の独断によって離縁させられ、豊臣秀勝に続いて徳川秀忠へと、3度もの結婚を強いられたのである。

 

 続く次女・初は、浅井家の主家筋にあたる京極家の当主・高次(たかつぐ/後の若狭小浜藩藩主)に嫁がされ、最後に残った長女・茶々だけが秀吉に見初められて、その室となったのである。実の父ばかりか、母・お市の方まで死に追い込んだ張本人のもとに嫁がなければならなかった茶々。その心の内は計り知れない。

 

■茶々(淀殿)は「亡国の女」ではあるが…

 

 もともと母の美貌には定評があったが、長女・茶々も違わず、美人だったと言い伝えられている。女好きの秀吉が、放っておく訳なかった。秀吉にはもう一人正妻・ねね(北政所、高台院)がいたが、子宝に恵まれなかった。

 

 茶々が鶴松および秀頼を産んだことで、秀吉の糟糠(そうこう)の妻・ねね共々「両御台所」と呼ばれるようになったのである。これだけは、「救い」と言って良いのかもしれない。

 

 その秀吉も、1598年に死んだ。秀頼が後継者となるも、わずか5歳とあって、その後見人として政治に介入。以降、権勢を誇り始めた家康に惑わされ続け、これと抗せざるを得ない状況に追い込まれたことはご存じの通りである。

 

 そして、関ヶ原の戦いを境として、情勢が一変。かつての臣下(家康)から秀頼に対し、「逆に臣下の礼を取れ」との屈辱的な言行が相次いだ。これには、いかな我慢強い淀殿といえども、我慢しきれなかったに違いない。

 

 結局、大坂夏の陣で攻撃を受けるや、意地を押し通して、秀頼と共に自害。これをもって豊臣家が滅亡してしまったわけだから、「亡国の女」の汚名を着せられても、いた仕方ないのかもしれない。

 

 それでも、彼女を悪女呼ばわりして良いものかどうか? 息子・秀頼の将来に夢を託し過ぎたというきらいはあったものの、その条件ともなる「強欲ぶり」はさほど感じられず、悪女と呼ばれる筋合いはないと思えてならないのだ。

 

 では、一体誰が、いつから彼女を「悪女」と言い始めたのだろうか?

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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