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「伊賀越え」はみんなのおかげ!徳川家康は協力した人たちにちゃんと褒美を与えた⁉

徳川家康の「真実」


徳川家康の3大危機のひとつ「伊賀越え」。徳川家康はこの九死に一生を得たこの出来事のときに助けてくれた人たちにその後、ちゃんと忘れることなく、その功績を称えている!


 

■もしも協力者がいなかったら徳川家康は殺されていた可能性大

 

大権現が供えられた愛宕神社
宿泊した際、多羅尾光俊から勝軍地蔵(大権現)を献上されると家康はたいそう喜び、江戸幕府建設の折、江戸を見渡せる山の上に愛宕神社(港区愛宕一丁目)を築いて祀ったという。

 

 実は、徳川家康が「伊賀越え」で選んだルートというのは、史料によって異同があるため、断定はされていない。家康の家臣・石川忠総(いしかわただふさ)は、家康の退避ルートについて、『石川忠総留書』で詳述しており、これが通説となっている。すなわち、家康は山城南部の宇治田原から近江の甲賀郡に入り、小川城主・多羅尾光俊(たらおみつとし)の支援により、桜峠から伊賀に入ったとするルートである。伊賀に入ってからは丸柱から石川、河合、柘植を経由して伊勢に抜けたとされる。石川忠総は、本能寺の変の年に生まれているので、当然のことながら、自らの体験を記したものではない。しかし、伊賀経由での逃避は最短距離でもあり、このルートを選んだのは事実だと思われる。

 

 ただし、伊賀越えは、距離は短いものの、家康にとって安全なルートとはいえなかった。というのも、天正7年(1579)に織田信長(おだのぶなが)は、いわゆる天正伊賀の乱で伊賀の土豪を武力制圧しており、家康が落ち武者狩りに遭う危険があったためである。

 

 そのため、一族が伊賀の出身であった服部正成は、その政治力を生かし、伊賀の土豪らに家康へ味方するよう働きかけた。また家康についてきた商人の茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)は、一行の少し先を行き、かねて用意の銀貨を土豪に渡すことで安全に通してもらったばかりか、道案内もさせている。

 

 こうして、無事に伊賀を抜けて伊勢に入った家康は、鹿伏兎、関、亀山を経て6月3日には白子に出た。そして、そこから船に乗り、6月4日朝には三河大湊に着いたという。このとき船の手配に尽力したのが伊勢大湊の商人・角屋七郎次郎(かどやしちじろう)であった。

 

 多羅尾光俊・服部正成(はっとりまさしげ)・茶屋四郎次郎・角屋七郎次郎のような協力者がいなければ、おそらく家康は穴山梅雪(あなやまばいせつ)のようにどこかで殺されていたにちがいない。家康は、伊賀越えに協力した主な4人の功績を、終生、忘れることはなかった。服部正成は伊賀同心を支配する旗本、多羅尾光俊の子孫は旗本となり信楽の代官に抜擢されている。また、商人の茶屋四郎次郎は幕府御用達の呉服商として朱印船貿易にも携わり、角屋七郎次郎も廻船自由の特権を与えられ、朱印船貿易にも参入しているのである。

 

監修・文/小和田泰経

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より)

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