徳川家康は本能寺の変が起こる直前どのように過ごしたのか⁉ そのとき織田武将たちは⁉
徳川家康の「真実」
本能寺の変で信長が討たれたと訊いて、徳川家康が取った行動には様々な説がある。
■織田信長が討たれたことなど知る由もない徳川家康は……

本能寺跡
現在の京都に立つ本能寺は豊臣秀吉によって再建されたもの。本能寺の変時の寺跡には石碑だけが立つ。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の直前、徳川家康は穴山梅雪(あなやまばいせつ)とともに安土城に織田信長を訪ねていた。この年の3月に武田勝頼が滅んだあと、家康は駿河一国を譲られており、また、家康の嚮導(きょうどう)役となった武田遺臣の穴山梅雪も家康のとりなしによって助命されており、お礼の意味があったと考えられている。その後、信長の勧めで京を訪れたあと、大坂から和泉の堺に向かった。堺では、今井宗久(いまいそうきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう)の茶会に招かれている。
本能寺の変が起きた6月2日、家康は穴山梅雪とともに、信長の上洛に合わせて京に戻る予定だった。もちろん、この日の早朝に明智光秀が信長を討ったことなど、家康は知る由もない。予定通りに堺を出発したのである。

明智光秀像
家康にとって、光秀の謀反は想像できるものではなかった。
家康は、家臣の本多忠勝を先遣隊として京に向かわせていたが、本多忠勝は河内の枚方(ひらかた)あたりで馬をとばして家康に本能寺の変を伝えようとする茶屋四郎次郎と遭遇したという。茶屋四郎次郎は、家康と懇意にしていた京の商人で、その日、家康は茶屋四郎次郎の屋敷に宿泊することになっていた。そのため、家康に一刻も早く本能寺の変について伝えようとしたのである。
本多忠勝は、茶屋四郎次郎をともなって、来た道を引き返した。本多忠勝と茶屋四郎次郎が家康一行に再会したのは、河内の飯盛山の山麓あたりであったという。
信長の死を知った家康と梅雪が動揺したであろうことは言うまでもない。『武徳編年集成』によると、信長の死を知っても家康は驚き騒がず、泰然自若として、近くの飯盛山が要害の地なので、そこに籠り、大坂にいる丹羽長秀(にわながひで)と連絡をとって明智光秀に一戦挑もうとしたという。しかし『武功雑記』によるとこのとき家康は「京の知恩院(ちおんいん)で切腹する」と口走ったが、本多忠勝ら家臣に諫められて逃げることにしたと記されている。
家康が自害を口にしたことは創作とみなされているが、動揺した家康が切腹あるいは斬り死にを覚悟したのは事実だったのではあるまいか。
監修・文/小和田泰経
(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より)