史実から読み取れる徳川家康と織田信長の本当の関係性とは?
徳川家康の「真実」③
対等であった、主従関係に近かったなど様々な形で語られる織田信長と徳川家康との関係性。果たしてその真実はいかなるものだったのだろうか?
■今川家に残るか、織田信長と結ぶかで迷う徳川家康

清須同盟についての記述が残る『武徳編年集成』国立公文書館蔵
桶狭間の戦い当日の5月19日、徳川家康(当時は松平元康/以下、家康で統一)は大高城で、その日到着するはずの今川義元(いまがわよしもと)を待ち受けていた。ところが、昼ごろ、「桶狭間で義元様が織田信長の奇襲を受けて討ち死にしたらしい」という噂が流れてきた。当時、嘘の噂を流し、敵を攪乱(かくらん)することがよく行われていたので、家康は、「そんな噂を信じるな」といっていたが、夕刻になっても到着しないので、斥候(せっこう)、すなわち物見(ものみ)を出したところ、桶狭間のあたりに今川軍の兵の死体がいっぱいあるとのことで、噂が本当だということを知った。
ふつうならば、そこで「危ない。すぐ逃げよう」と城を出るところであるが、家康は落ち着いていた。下手に城を出ると落ち武者狩りに遭(あ)うことを警戒したのである。籠城(ろうじょう)していると、その夜中、信長の家臣水野信元(のぶもと)が使者を送り「早く三河へもどった方がよい」と忠告してきた。実は水野信元の妹が於大(おだい)の方、すなわち元康の母だったのである。
翌日、明るくなってから大高城を出た家康は、無事、岡崎に帰還している。しかし、まだ岡崎城には今川の兵が残っていたので、松平家の菩提寺(ぼだいじ)である大樹寺(だいじゅじ)に入り、岡崎城から今川の兵がいなくなるのを確認してから入城している。
桶狭間の戦いのとき、今川家の家督(かとく)を継いでいた今川氏真(うじざね)は駿府に残っていた。桶狭間で義元だけでなく、重臣たちが何人も討ち死にしたが、今川家の当主は健在なので、元康も、そのまま今川軍の一員として残ることも考えた。正室の瀬名(築山殿)と竹千代・亀姫の2人も駿府に残っていたからである。
そうした思いがある一方で、「これは、今川家から自立できる好機かもしれない」という思いも頭をもたげはじめていた。松平領を今川保護国から独立させることができるかもしれないという思いである。松平家の当主元康を今川家に取られていた形の家臣たちの中には、「この際、今川家と手を切りましょう」とする声も強くなってきた。
ただ、こうした場合、松平家が単独で自立することは難しかったこともたしかである。翌永禄4年(1561)、母於大の方の兄水野信元の仲介で信長と手を結ぶ動きが出てきた。家康が信長と講和し、氏真との断交を決意したのがいつなのかは正確にはわからないが、早くもその年4月には、元康は三河の今川方武将牧野氏の牛久保城(うしくぼじょう)を攻め始めているのである。
そして、その年の内に西三河をほぼ制圧することに成功している。信長としても、これから美濃(みの)の斎藤家と戦いを本格化するにあたって、背後を安全にすることが求められていたからである。
これまでの通説では、永禄5年正月15日、元康が信長の居城清須城(きよすじょう)を訪ね、そこで清須同盟を結んだとされてきた。『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』など、江戸時代に書かれた家康の伝記には、仲介役の水野信元・元康・信長の3人が起請文(きしょうもん)を取りかわし、酒盃(しゅはい)をあげたと記されていたからである。
ところが、同時代の史料にはそのことがみえず、また、元康に同行したはずの家臣たちの記録にもそのことが出てこないので、このときの会盟(かいめい)が本当にあったのかどうかは疑問視されている。たしかに、そのころ、元康が本国三河を留守にできるような状況ではなかったと思われる。ただ、実際の会盟はなかったとしても、清須同盟がそのころ結ばれたことは事実とみてよい。
■主従関係の締結に近かった清須同盟

清州城
約8年ほど信長が本拠とした城。一説には清州同盟はこの城で結ばれたという。
信長との同盟に踏み切り、今川家と手を切った元康にとって気がかりだったのは、駿府に残してきた正室瀬名と2人の子どものことであった。氏真に抑留(よくりゅう)された形だったからである。そこで清須同盟締結直後の2月4日、元康は今川方の上ノ郷城(かみのごうじょう)を攻め、城主鵜殿長照(うどのながてる)の2人の子を生け捕りにし、駿府に抑留されていた形の3人を人質交換によって取りもどすことに成功した。信長との同盟が早くも成果として表れた形である。そして、翌6年7月には、名乗りを元康から家康に変えている。元康の「元」は前述のように今川義元の一字を与えられたものだったからである。これによって元康改め家康は完全に今川家と手を切ったことになる。
ところが、今度は家康が信長との清須同盟に翻弄(ほんろう)されるのである。ふつう、同盟は対等ないし、対等に近い関係というのが基本であるが、この家康と信長の清須同盟はそうではなく、主従関係に近い同盟だった。それがはっきり露呈したのが天正7年(1579)の築山殿(つきやまどの)事件、あるいは信康(のぶやす)事件といわれるものである。
この築山殿というのは家康の正室瀬名(せな)のことである。抑留されていた駿府から取りもどしたあと、岡崎の築山といわれるところに居住していたことからその名でよばれているが、築山殿を殺し息子信康を家康が切腹させた事件である。
これも、従来は、築山殿と信康が武田勝頼(たけだかつより)と内通(ないつう)しているのを知った信長が家康に2人の死を命じたものとされてきた。しかし、近年の研究では、信長からの命令はなかったが、家康が信長の気持ちを忖度(そんたく)し、死に追いこんだとしている。
実は、こうした忖度の場面は他にもみられ、天正9年3月の遠江高天神城(たかてんじんじょう)攻めの最後の場面で、城兵から「降伏したい」との申し出があったとき、家康は信長に「そのようにいってきたがどうしましょう」と自らお伺いをたてている。そのとき、信長から「そちらの判断で」といわれたが、信長からの許可がないとみた家康は、その降伏の申し出を拒み、力攻めで城を落としているのである。
家康の手紙をみても、ある段階から信長のことを「上様(うえさま)」と表現している。対等の同盟ではないことを家康も認識していたことがうかがわれる。
もちろん、家康にしてみれば、信長と結んだ同盟があったから、今川領の遠江も手に入れることができたし、長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)の戦いにおいても信長軍が応援にきてくれたから勝つことができたという思いだったこともたしかであろう。
天正10年3月、信長による武田攻めのとき、家康も同盟軍として甲斐(かい)に攻め入っている。注目されるのは、そのときの論功行賞(ろんこうこうしょう)として、信長から家康に駿河(するが)一国が与えられている点である。家康にしてみれば、信長の家臣と同じ扱いを受けたともいえるわけで、これも対等の同盟ではなかったことの証明といえそうである。
監修・文/小和田哲男