お市の夫・浅井長政に織田信長が裏切られたとき、徳川家康はどうした?─金ヶ崎の退き口での家康─
今月の歴史人 Part.2
織田信長人生最大の危機といわれる「金ヶ崎の退き口」。信長方の武将として同行していた徳川家康はこのときどういった行動をとったのだろうか。
■実は徳川家康も撤退戦に大きな貢献をしていた

浅井長政・お市夫妻の像
戦国一の美女と謳われた織田信長の妹であるお市は近江の浅井長政と婚姻。長政は信長の信も厚かったという。
織田信長は、かねて越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)との関係が良くなかった。元亀元年(1570)4月、信長は義景を討つべく越前に出陣した。同盟関係にあった徳川家康も信長とともに出陣した。軍勢は、約3万だったといわれている。
4月25日、信長と家康の軍勢は、手筒山城(てづつやまじょう/福井県敦賀市)の攻略に成功した。この戦いに家康勢が加わっていたのは事実である。その勢いでもって、信長勢は金ヶ崎城(かねがさきじょう)を落とすことに成功した。こうして信長勢は、朝倉氏を相手に戦いを有利に進めたのである。
同じ頃、信長の妹・お市の夫で、同盟関係にある近江(おうみ)の浅井長政(あざいながまさ)が裏切ったとの一報が届いた。長政が越前に攻め込んでくると、信長勢はひとたまりもなかった。長政の裏切りで、たちまち信長は窮地に陥り、撤退を余儀なくされた。

山と海に囲まれた金ヶ崎にいた信長の大軍は背後からの浅井軍の攻撃に逃げ道を失い、大苦戦となった。(すべて東京都立中央図書館蔵)
撤退を決意した信長は、木下(豊臣)秀吉に殿(しんがり)を命じ、一気に引き返した。誰が殿を務めたのかに関しては、明智光秀(あけちみつひで)、池田勝正(いけだかつまさ)など諸説あるが、信長は命からがら撤退に成功したのである。
金ヶ崎から撤退の際、家康は信長から事前に知らされることはなく、秀吉から聞かされたという。家康は金ヶ崎の退き口に際して、自ら真っ先に鉄砲を放ち、撤退戦で大いに貢献したと伝わっている。
「朽木(くちき)越え」によって、家康は京に帰還し、その後、岡崎城に戻った。実は、金ヶ崎の退き口における家康の活躍は、『寛永諸家系図伝』、『徳川実紀』といった二次史料にしか書かれていない。
とはいえ、撤退戦で家康が何かしらの貢献したのは、事実とみなしてよいのではないか。家康の軍功により、信長は九死に一生を得たのだ。

金ヶ崎の退き口に関する年表
【家康目線】織田家内での地位上昇のために
家康が金ヶ崎城の戦いで見せた貢献ぶりは、さほど史料が残っているわけではない。いずれにしても、家康は信長と同盟関係にあったので、その命に従って、朝倉氏討伐に出陣せざるを得なかった。
当時、朝倉氏は越前に本拠を置く「反信長」の代表的な大名だった。朝倉氏を叩けば、家康の立場が良くなるのは明らかだった。
信長勢は緒戦で戦いを有利に進めたが、浅井長政の裏切りに遭った。家康も驚いたに違いない。しかし、撤退戦を成功させたことで、家康は命脈を保ったのである。
監修・文/渡邊大門