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織田信長と徳川家康が結んだ「清須同盟」は幻だった⁉─徳川家康の真説─

今月の歴史人 Part.2


桶狭間の戦い後、それまで主従関係にあった今川氏との決別を決意し家康は尾張の織田信長へ急接近。ここでは家康と信長が接近した理由とふたりが結んだ「清須同盟」関する新事実に迫る!


 

■美濃の斎藤氏に苦慮する信長と今川氏に敵対した家康の利害が一致

 

徳川家康
桶狭間の戦い後、元康は空き城となった岡崎城に入城する。東三河の武将の多くが元康になびいたことを知り激怒した今川義元の嫡男・氏真は三河の武将の人質を殺害。元康は伯父の水野信元の仲介で信長と同盟を結んだ。(国立国会図書館蔵)

 

 永禄3年(1560)5月、尾張国に侵攻した駿河の今川義元(いまがわよしもと)は、桶狭間において、織田信長(おだのぶなが)の軍勢に急襲され、あえなく命を落とした。今川方の部将として、大高城にあった松平元康(もとやす/後の徳川家康)は、伯父・水野信元(みずののぶもと)の使者から、義元戦死の報を得る。いずれ、同城にも織田方の襲来があるかもしれないということで、元康軍は城を退去。松平氏の菩提寺である三河の大樹寺(だいじゅじ/岡崎市)に入るのだった。かねてより、今川氏に接収されていた三河の岡崎城には、未だ今川勢がいた。よって、彼らが撤退していくのを見て、元康主従は、念願の岡崎入城を果たすのであった(5月23日)。元康は、駿河に妻子(築山殿や信康)を残していたが、駿河に戻ることはなかった。岡崎城にて領国の保全に取り掛かるのである。西三河から撤退していく今川方。そこを制圧していく元康軍。

 

岡崎城
今川義元が討たれた後、今川勢は掛川城を放棄して撤退。その機に元康は岡崎城を取り戻し居城とした。

 

 しかし、元康はすぐに今川氏と手切れしたわけではなかった。三河・尾張の国境付近に軍を進めて、信長方とも抗争を繰り広げていたのである。ところが、永禄4年に入ると、状況は変化する。信長と元康が同盟を結ぶのだ。この同盟はこれまで、永禄5年1月、元康が清須城の信長のもとを訪問し、締結されたと言われてきた。いわゆる清須同盟である。だが、今ではこのような「清須同盟」はなかったとする説が有力だ。

 

『信長公記』や『三河物語』などの史料に、元康の清須訪問が記されていないこと。また、元康は東三河で今川方と戦いを展開しており、清須を訪れる余裕などはなかったと思われること。そうした理由から「清須同盟」は幻だったとされる。とは言え、信長と元康が同盟を結んだこと自体は事実であり、それは永禄4年の2月か3月であると言われる。なぜ両者は和議を結んだのか。信長は美濃の斎藤氏と戦をしており、その上、三河の元康と交戦を続けることは得策でないと思ったのであろう。

 

 一方、元康も西三河を急ぎ制圧し、東三河も平定したかった。この両者の思惑が一致し、和議へと至ったのであろう。和議の内容は、領域確定に関するものだったという。和議の仲立ちは、水野信元がしたともされるが、織田方の滝た き川がわ一かず益ますが石川数正(いしかわかずまさ)を通じて申し入れたとの話もある。いずれにせよ、元康は今川氏を見限り、織田氏と連携したのだ。これも、元康の大きな決断の一つと言えよう。

 

[新説]清須同盟はなかった?
『信長公記』や『三河物語』では元康の清須訪問が記されておらず、信長と元康が対面にて正式に文書を交わして同盟を結んだかどうかは疑問視されている。とはいえ同盟自体は事実で、以降元康は信長に対しての信義を貫き信長もそれに応えている。

 

監修・文/濱田浩一郎

(『歴史人』2023年2月号「徳川家康の真実」より)

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