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徳川家康は今川家での人質時代、本当に不遇だったのか?

今月の歴史人 Part.1


天下人・徳川家康は不遇の人生を送った人物として語られることが多く、その一因となっているのが幼いころの「人質生活」に起因している。だが、はたしてほんとに人質時代、不遇な生活を送っていたのかどうかは不明な部分が多いという。


 

■大器の片鱗を見出され元康は氏真の右腕として期待された

 

家康 人質交換の碑
2年間織田家に人質として幽閉された家康は、織田信広との人質交換で駿府の今川義元の元へと送られているが、その人質交換が行われた笠寺観音(名古屋市南区)に立つ碑。

 

 徳川家康が人質として送られることとなった駿府は、戦国大名今川氏の居館がおかれていたところである。戦国時代には、応仁・文明の乱による京都の荒廃を避けて下向してきていた公家や文化人が多く滞在しており、小京都ともてはやされていた。

 

「東海一の弓取り」と謳われた今川義元自身も、和歌や連歌にも通じており、駿府では貴族の文化が華やいでいたのである。こうしたことから、貴族趣味におぼれていたと評されることもあるが、当時の戦国大名には、文化的な素養も求められていたことも忘れてはならない。

 

 駿府における家康の人質生活がどのようなものであったのかはわからない。母のいない家康の養育にあたったのは、祖母にあたる華陽院(けよういん)だったとされる。華陽院は、於大(おだい)の方の実母で、当時は駿府の智源院に住み、手習いなどの教育にもあたったという。身内が誰もいない人質生活のなかで、家康は祖母に養育されながら、成長していった。

 

 また、家康は臨済寺の住持・太原崇孚(今川家を支えた僧で、別名・雪斎)の教えを受けることもあったという。太原崇孚は、今川義元に仕えた僧侶で、軍略に長けていたことから、軍師として合戦に指揮を執ったこともある。具体的に家康がどのような教育を受けていたのかは不明だが、中国の古典などを学んでいたものと考えられている。

 

 弘治元年(1555)3月、家康は今川義元の居館において元服することになった。14
歳のときのことである。なお、元服の年次については、弘治2年の15歳のときとする異説もあってはっきりとはしていない。元服にあたり、義元の偏諱(へんき)をうけて元信、のち信康と名乗ることとなった。

 

駿府城跡
今川氏の本拠であった今川館は現在、のちに家康が建てた駿府城の敷地内にその形跡を残す。

 

 元服をした家康は、弘治3年、結婚することになった。相手は今川氏の一族で重臣の関口氏純(せきぐちうじずみ)の娘で、のちに岡崎城の築山に住んだことから築山殿(つきやまどの/瀬名)あるいは築山御前とよばれている。このとき家康は16歳で、築山殿の年齢はよくわかっていない。それはともかく、以後、家康は、今川氏の親類衆として扱われるようになった。

 

 家康は、結婚の翌年にあたる永禄元年(1558)2月、義元から三河寺部城主・鈴木重辰(すずきしげたつ)を攻めるように命じられた。義元の命をうけた家康はいったん岡崎城に戻ると、家臣を率いて寺部城に向かい、城攻めを行った。この寺部城攻めが家康の初陣とされている。岡崎城を守る家康の家臣らは、駿府に赴いて家康の帰還を要請したが、認められることはなかった。

 

 このころ、今川氏では、義元から氏真に家督が譲られたとみられている。家康は、氏真の右腕として期待されていたのである。

 

監修・文/小和田泰経

(『歴史人』2023年2月号「徳川家康の真実」より)

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