信長と家康の運命を変えた「桶狭間の戦い」
戦国武将の領土変遷史⑫
尾張の織田家を継いで信長が登場!戦国史上最大の下剋上を起こす

尾張まで勢力を伸ばそうと、大軍を率いて出陣した今川義元は、桶狭間で格下と見られた織田信長軍に討たれる。都立中央図書館蔵
尾張で覇権を握っていた織田信秀(おだのぶひで)が、天文21年(1552)に病死すると、信秀の嫡男であり、斎藤道三(さいとうどうさん)の娘婿でもある信長(のぶなが)が跡を継いだ。のちに天下人となる男である。
信秀の死は、尾張国内の国人に動揺を与えたようで、今川義元(いまがわよしもと)の調略に応じた国人もいた。そのため、尾張の鳴海(なるみ)城や大高(おおだか)城は今川氏の支城になってしまったのである。こうして尾張への圧力を強める義元は、三河の国境近くに橋頭堡(きょうとうほ)として村木砦(むらきとりで)を築く。これに対し信長は、岳父斎藤道三の支援を受けて、天文23年、この村木砦を落とした。
さらに弘治元年(1555)、信長は主家にあたる尾張下四郡守護代・織田信友(のぶとも)の居城である清須城を攻略した。それまで那古野(なごや)城を居城としていた信長は、この清須城を拠点に尾張平定へ乗り出していく。
そのころ美濃では、信長の岳父である斎藤道三が子の義龍(よしたつ)と対立していた。その対立は、義龍が弟の孫四郎と喜平次(きへいじ)を謀殺してしまったことで決定的となる。
弘治2年、道三は義龍に兵を挙げたものの、家臣の多くが義龍についたことで苦戦する。結局、長良川の戦いで道三は義龍に敗れ、信長も尾張から美濃へと救援に向かったが間に合わず、道三が討ち死にしている。それまで尾張と美濃は同盟関係にあったが、道三の死を境に、信長は、義龍をも敵に回すことになった。
信長と義龍が対立したことで、信長と尾張における覇権を競っていた岩倉城を本拠とする上四郡守護代織田信賢(のぶかた)が義龍と結ぶ。こうして信長が苦境に陥るなか、信長の実弟の信勝(のぶかつ)を奉じた家臣が信長に対して反旗を翻す。
結局、信長と信勝は弘治2年、兄弟同士で戦うことになってしまった。この稲生(いのう)の戦いに敗れた信勝は兄の信長に降伏するものの、信長は信勝を清須城で暗殺してしまう。
信長と家康の転機となった桶狭間の戦い
こうして名実ともに織田家の家督を継いだ信長は、ついに岩倉城を攻略し、織田信賢を追放した。これにより、信長が尾張を統一したのである。
尾張を統一して勢いに乗る信長は、尾張に進出してきた今川氏の排除に乗り出した。信長は、今川方となっていた鳴海城(なるみじょう)や大高城の周囲に付城(つけじろ)を築き、両城の奪還に動いている。
大高城と鳴海城をめぐる攻防が繰り広げられるなか、永禄3年(1560)、義元は自ら大軍を率いて尾張に出陣した。義元は上洛を目指していたともいわれるが、義元自身がこのとき、周辺の大名に上洛を根回しした形跡はない。少なくともこの時点では、信長が築いた付城を落とし、大高城と鳴海城を救援するつもりであったようだ。
双方の軍勢の数は不明であるものの、尾張をようやくほぼ平定したばかりの信長と、駿河・遠江・三河から尾張にも橋頭堡をもっていた義元では圧倒的に信長が不利だった。そのため、信長は義元の本陣を急襲する作戦をとったのである。
今川氏の軍勢によって大高城の付城が陥落するなか、信長は桶狭間(おけはざま)において休息する義元の本陣を襲撃したのだった。義元は、将軍から特別に許可された輿(こし)に乗って出陣していたが、その輿の場所から本陣が露呈してしまったらしい。輿の場所を集中的に攻撃した織田勢により義元は討ち取られ、総崩れとなった今川勢は駿河に敗走した。
この桶狭間の戦いに、松平元康(まつだいらもとやす)、すなわちのちの徳川家康(とくがわいえやす)も今川氏の一軍を率いて参戦していた。しかし、義元が敗死したことで、義元の偏諱(へんき)をうけていた元康の名を家康と改め、自立を図るようになる。
もっとも、義元が討ち死にしたあとも家督を継いでいた氏真(うじざね)は健在であり、家康が簡単に今川氏から離れることができたわけではない。妻子を人質として取られていた家康は、今川氏に従属する姿勢を見せながら、信長と同盟を結び、勢力を拡大していった。そして、永禄6年から永禄7年にかけておきた三河一向一揆を平定する。
三河を統一した家康は、苗字をそれまでの松平から徳川に改める。先祖が新田氏の流れをくむ「得川(とくがわ)」を名乗っていたというのが根拠であり、その得川を縁起のよい「徳川」と表記したのだった。
徳川への改姓により、家康は松平一族よりも頭一つ抜けた存在となり、権威を高めることになった。家康は、さらに甲斐の武田信玄(たけだしんげん)と密約を結び、同時に今川領へ侵攻していく。これにより、戦国大名としての今川氏は滅亡し、遠江が徳川領、駿河が武田領となった。
一方、桶狭間の戦いに勝利した信長自身は、北近江の浅井長政(あざいながまさ)に妹のお市(いち)の方(かた)を嫁がせるとともに美濃の平定を図る。しかし、斎藤義龍が健在の間は、美濃に侵入することすらできなかった。そうしたなか、永禄4年に義龍が病没して子の龍興(たつおき)が跡を継ぐと、総攻撃をしかけたのである。これにより、信長が稲葉山(いなばやま)城を攻略すると、岐阜城と名を改めて自らの居城とした。
監修・文/小和田泰経