【北条・武田・上杉】関東三国志の始まり
戦国武将の領土変遷史⑦
「北条氏綱包囲網」により小弓公方への服属を選択

北条早雲が大森藤頼から奪い、その後北条氏の居城となった小田原城。天守閣は、昭和35年に復興されている。
小弓公方(おゆみくぼう)足利氏の成立により、古河公方と小弓公方の抗争が展開され、南関東の武家勢力はいずれかに属した。伊勢宗瑞と扇谷上杉氏はともに小弓方になり、それにより和睦が成立した。永正16年(1519)4月頃に宗瑞は隠居し、嫡男氏綱(うじつな)が家督を継ぐと、伊勢氏の本拠は小田原城になった。
またこの年初めに武田信虎(のぶとら)は新本拠として甲府(山梨県甲府市)の建設を開始し、同年末に移転した。この時までに国内の国衆を従え、城下町に居住させた。翌年に有力国衆(くにしゅう)の叛乱(はんらん)がみられ、これを鎮圧するも、翌大永元年(1521)には今川軍の侵攻を受け、信虎はこれを撃退。ようやく甲斐統一を遂げた。
大永3年、伊勢氏綱は名字を北条氏に改称し、山内・扇谷両上杉氏に敵対した。同4年から本格的な侵攻を展開し、武蔵江戸城(東京都千代田区)を攻略し、武蔵中部に進出した。このため両上杉氏は同盟し、さらに扇谷上杉氏は武田信虎とも同盟して、北条氏に対抗した。
氏綱と扇谷上杉氏は、ともに長尾為景(ながおためかげ)を味方にするべく接近するが、為景はいずれにも味方しなかった。同6年には小弓公方勢力も扇谷上杉氏に味方し、氏綱は周囲を敵対勢力に囲まれることになった。そのため氏綱は、あらためて小弓公方足利義明に服属した。これにより足利義明は、南関東6カ国を勢力下に置いた。
享禄元年(1528)から古河公方足利氏と山内上杉氏でともに内乱が展開し、同4年に、それぞれ足利晴氏(はるうじ)、上杉憲政(のりまさ)が勝利した。
その一方、北条氏綱と扇谷上杉氏・武田信虎の抗争が激化し、北条氏は両者の進軍をうけた。それに対して今川・北条両氏は、天文3年(1534)・同4年に甲斐に侵攻し、武田信虎と抗争した。また享禄3年から越後では長尾為景に対する守護上杉氏一族の叛乱が展開された。為景はこれを天文5年にようやく鎮圧している。
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