政宗が家康に取り付けた百万石のお墨付きはどうなったのか?
戦国武将の領土変遷史④
和賀一揆を刈り取れず苅田郡のみの加増に

宮城県白石市益岡町にある白石城の天守内。関ヶ原の戦い後、明治維新まで伊達家の重臣である片倉氏の居城となり、明治7年に一度解体されたが、平成7年に三階櫓(天守閣)と大手一ノ門・大手二ノ門が忠実に復元された。
徳川方の東軍と石田三成方の西軍が雌雄を決する「関ヶ原合戦」直前の慶長5年(1600)8月22日、政宗は家康から(世に言う)「百万石のお墨付」を与えられた。家康への協力を誓った見返りであった。
そこには、政宗が秀吉から与えられていた所領58万石に加えて、約50万石(刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・永井の7郡)を与えるという武功への褒賞が記されていた。
だが、現時点でこの新所領は全てが上杉領であり、同時にかつては伊達領であった地域である。政宗には喉から手が出るほど欲しい所領でもあった。つまり家康は、政宗が東軍としてかつての自領に侵攻し、実力で奪い取ることを認めたことにもなる。
この「お墨付」以前の7月24日、政宗は上杉方の白石城攻撃を開始し、翌日には落城させている。この白石城は刈田郡にあって信夫口を押さえる重要な城であった。
落城させ、次の段階に入ろうとした政宗に、下野・小山の軍議を終えた家康から使者が来た。「東軍が反転して西上する場合、上杉が動けないように牽制して欲しい」というものであった。家康は、上杉勢が東軍を背後から襲ってきたら、という恐怖を取り除くことを政宗に期待したのだった。
さらに、常陸の佐竹義宣(よしのぶ)が東軍に属してはいるが、三成と親しく、いつ寝返るか分からない。この上杉・佐竹を牽制できるのは政宗しかない、というのが家康の判断であった。その証が「お墨付」であった。
もしもこれが実現すれば、政宗の所領は108万石になる。だが政宗は「関ヶ原の決戦」が僅か半日で決するとは思わなかった。その結果は、上杉領を侵犯する準備を整えていた政宗に、その準備だけで全てが終わったことを示していた。
しかし政宗は別の動きも示した。東軍の一将であった南部信直の所領・和賀領への侵攻を画策したのだった。政宗は、この和賀領の旧支配者・和賀忠親(ただちか)の蜂起を裏で支援した。この和賀一揆は南部軍によって制圧され、忠親も切腹して終了する。政宗の野望はここでも失敗に帰した。だが懲りずに政宗は、伊達・信夫郡でも一揆を煽り立てたが、これも失敗して上杉領を奪い取れなかった。
家康の論功行賞は翌年。政宗には刈田郡と近江の飛び地、合わせて2万5千石が加増されただけであった。
「百万石のお墨付」は実行されなかった。これは、政宗が和賀一揆などを扇動したため家康の怒りを買った、と従来は説明されてきたが「政宗自らが約束された上杉領を自分で奪い取ることが出来なかったから、奪い取った刈田郡のみが認められたのだ」という説が正しいようである。
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