「秀吉の時代」を読み違えた北条氏政
「偉人の失敗」から見る日本史⑭
名家ゆえの誇りに縛られ指導力を発揮できず

北条氏政と弟・氏照の墓所(神奈川県小田原市)。関東大震災の際に一度埋没したが、地元の有志の手により復興された。墓地内には、氏政・氏照が石上で自害したと伝わる生害石がある。
失敗のケーススタディ
◆小田原合戦で戦国屈指の名家はなぜ滅びたのか?
◆徳川家康、伊達政宗との連携はなぜ頓挫したのか?
◆なぜ小田原評定のような事態に陥ったのか?
伊勢宗瑞(いせそうずい)の子・氏綱(うじつな)に始まる小田原・北条氏は、関東管領・上杉氏を退けて関東を平定した名家であった。その3・4代目に当たる氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)は、後世の軍記物などによって「暗愚」とされる。特に氏政は早雲・氏綱(うじつな)・氏康(うじやす)ら先代が築き上げた「関東の北条」というブランドを傷付け、家を滅ぼした無能な国主というレッテルを貼られたのだった。
しかし最近の研究では「父・氏康が半生を費やした上杉謙信との関東支配を巡る抗争に決着をつけ、房総の里見(さとみ)氏とは北条優位の同盟を成し遂げ、従属する国衆(在地豪族)は下野半国から常陸南部にまで及び、北条氏最大の領国形成は氏政・氏直父子」という評価がある。
それにしても、氏政・氏直は関東最大の名家・北条氏を滅亡に至らしめたこともまた確かである。
氏政は、織田信長からの働きかけに応え、天正8年(1580)には、信長に従属していた。本能寺の変の後、関東(上野)甲信は「天正壬午(てんしょうじんご)の戦い」によって、徳川家康・上杉景勝・北条氏政(氏直)の3国による争奪戦が展開される。この戦いに武田旧臣であった真田昌幸(さなだまさゆき)が加わることで複雑さを増した。結果として、家康の娘(督姫/とくひめ)が氏直に嫁ぎ、両家は和睦する。真田昌幸は、秀吉の傘下に入る。関東甲信の国割りも秀吉の裁定で決着した。
この前後、数度に渡って秀吉は和戦両様の構えで、北条氏に対して「上洛・出仕」を求めた。氏政は使者を送るなど表面上は秀吉に従いながら、裏では「奥羽の覇者」となった伊達政宗(だてまさむね)との同盟を進めていた。縁戚の家康も秀吉との間に入って、取りなしていた事実もあった。
第1の氏政の失敗は、伊達・徳川に頼りすぎており、実情が読めないことにあった。秀吉は氏政の曖昧な態度が許せずに天正17年11月、小田原討伐に立った。その軍勢は20万。だが氏政は難攻不落の小田原城という「神話」を頼った。これが第2の失敗となる。
「小田原評定」と呼ばれる結論の出ない会議を繰り返したこともその1つ。大事な時点で、優柔不断でリーダーシップのなさも表面化した。順風満帆の時には関東での最大版図を拡大できたが、危機に直面した時の心構えがなかったのが第3の失敗(失政)といえる。
政宗は、秀吉の性格を見抜いた上で取り入り滅亡を免れたが、氏政には政宗ほどのパフォーマンスは無理だった。名家ゆえの誇りに縛られ過ぎたのであった。この「誇り」が北条家を滅ぼす最大の失敗になった。
監修・文/江宮隆之
(『歴史人』2021年9月号「しくじりの日本史」より)