己の力量を過信し自滅した松永久秀の野心
「偉人の失敗」から見る日本史⑨
信長に臣従した後も対等意識を維持

信貴山城址(奈良県生駒郡)の石碑。ここから北には久秀の屋敷跡などの削平地が広がる。
失敗のケーススタディ
◆畿内制覇の野望を捨て、信長に臣従したのはなぜ?
◆東大寺大仏殿焼き討ちという悪逆非道の所業をしたのはなぜ?
◆信長からの助命を拒絶し、なぜ爆死したのか?
戦国屈指の梟雄(きょうゆう)として名高い松永久秀(まつながひさひで)。永禄7年(1564)7月、主君として仕えた三好長慶(ながよし)が病没すると、三好三人衆(三好長逸/ながなり、三好政康/まさやす、岩成友通/いわなりともみち)と、畿内一円の支配権を巡って死闘を繰り広げた。
長慶の死後、久秀は主家の三好家や将軍家を凌ぎ、畿内一円を支配しようという野望を抱いた。以後、久秀は誰かの家臣として忠実に仕えることよりも、自身のため畿内一円を掌握し、天下に覇を唱えるという野望を抱き続けた。久秀は、自身の野望実現のために生きたと考えると、その行動原則を読み解くことができるだろう。
永禄10年(1567)10月には、三好三人衆が布陣する東大寺に攻撃をしかけたことから、大仏殿は焼け落ちた。大仏殿の焼失については、三好方による放火が原因とともされる。だが、久秀は、大仏への不敬行為を否定することなく、国内における宗教勢力との対決を強め、大和一国を支配下に従えるための闘争を続けた。
永禄11年(1568)9月、織田信長が上洛すると、久秀は服属することを誓い、大和一国の領有を認められた。しかし、久秀には信長に主君として仕えようとする意識が低く、あくまでも盟約者とみなし、横並びの意識が強かった。
元亀2年(1571)には、武田信玄が反織田同盟に加わると、久秀は信長に叛旗(はんき)を翻した。だが、信玄が上洛を前にして病没してしまったため、久秀の思惑は外れ、天正元年(1573)12月、信長に対して降伏を申し入れた。すると、信長は多聞(たもん)城の明け渡しを条件に久秀の降伏を受け入れた。久秀には使い道があるとみなし、寛大な処置を下したのだった。
久秀が通常の感覚の持ち主であれば、信長の恩情に対して心動かされたかもしれない。だが、久秀は、そんな殊勝(しゅしょう)な人間ではなく、次のチャンスを探り続けた。
天正5年(1577)8月17日、信貴山(しぎさん)城に立て籠もり、またも信長に対して叛旗を翻した。だが、9月には、織田軍の主力部隊が信貴山城に攻め寄せ、完全に包囲。信長は、天下一と称された「平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜」を差し出せば、一命を助けることを約束。だが、10月10日、久秀は、平蜘蛛の茶釜とともに爆死した。
名物の茶釜とともに、久秀は爆死することにより、その名は戦国史に深く刻み込まれた。ただし、一度ならず、二度までも強者信長に叛旗を翻した久秀の行動は、結果的には失敗だったと評価できる。
監修・文/外川淳
(『歴史人』2021年9月号「しくじりの日本史」より)