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後鳥羽天皇はなぜ鎌倉幕府の倒幕に失敗したのか?

「偉人の失敗」から見る日本史⑤

倒幕に執着したゆえに時流を読み間違って失墜

大阪府三島郡にある水無瀬神宮。鎌倉時代に都を離れて崩御した後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇を弔うために、後鳥羽天皇にゆかりのある水無瀬の地に建立された。

 承久元年(1219)正月、3代将軍源実朝(さねとも)の暗殺、この衝撃的な事件はそれまで良好であった朝廷と幕府の関係を一変させた。おそらく事件は殺害者である公暁(くぎょう)の言葉の通り、亡父頼家の子として将軍職を望んでいたところ、後鳥羽上皇皇子の下向と将軍就任が規定路線として進められる中で、それに抗してのクーデターというのが実情であろう。

 

 上皇は懇意の将軍実朝を後見とし、そこに皇子を将来の将軍として幕府へ送り込むことで幕府をコントロールしようとした。その計画は実朝の横死により一瞬で崩壊する。幕府側は皇子下向計画の続行を願うが、上皇の憤りは強く色よい返事はない。実朝の後見がなければ、皇子を下向させて将軍としても、お飾りになることは目に見えている。むしろ将軍の権威を高め、幕府の強化につながりかねない。上皇の危惧はもっともである。

 

 上皇は幕府に揺さぶりをかける。執権北条義時(よしとき)が知行(ちぎょう)していた摂津国長江荘(ながえのしょう)の地頭職を返上するよう要求したのである。この理不尽な要求の意味するところは、屈服して皇子の下向を願うのか、屈せずに敵対の道を選ぶのかを選択せよというという詰問である。義時は父時政ほどの権力を握ることができず、むしろ成長した将軍実朝に押され気味であった。朝廷が巻き返しを図るには絶好の機会であろう。

 

 幕府が出した答えはNOであった。義時は弟時房(ときふさ)に千騎の軍勢を付けて上洛させ、地頭解任を拒否し、改めて皇子の下向を要請した。この軍事的威圧を伴う回答は、実質的な承久の乱の引き金であった。

 

 もちろん上皇は皇子の下向を拒絶し、密かに倒幕計画を進めた。2年後の承久3年5月、計画は実行に移される。御家人の三浦胤義(みうらたねよし)や、京都守護の大江親広(おおえのちかひろ)など幕府配下の武士を取り込み、さらに関東の武田・小笠原など有力御家人や、はては北条時房などにまで、義時追討の命令を伝達している。つまり倒幕とはいえ、実質的には義時による幕府支配を停止させ、上皇の支配下に置くことが目標とされたのである。もちろん御家人らの多くは上皇の誘いに乗ることはなく、尼将軍北条政子の檄(げき)もあり、早々に反撃の上洛軍が編成されることになる。

 

 上皇の目論みは甘かったということになるが、多くの西国御家人が上皇方に参じてもいる。後醍醐天皇の倒幕も幕府の内部崩壊を誘ったもので、後鳥羽は方向性を誤っていたわけではなかろう。しかし、執権義時・泰時の代で幕府体制は急激に進化してゆく、そうした時勢を見誤った点は否めない。

 

監修・文/菱沼一憲

『歴史人』20219月号「しくじりの日本史」より)

 

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