鎌倉幕府を創設した源頼朝の失敗【前編】
「偉人の失敗」から見る日本史③
身内や家人への感謝・愛情を欠かさなかった頼朝

伊豆に配流された約20年後、34歳の時に挙兵。日本で初めて武家政権を樹立し、不動の地位を築いた。
東京国立博物館蔵/Colbase
源頼朝が犯した失敗のケーススタディ
◆源氏が3代で滅んだのはなぜ?
◆平治の乱で敗れたのはなぜ?
◆忠臣だった上総広常を殺してしまったのはなぜ?
源頼朝(みなもとのよりとも)は鎌倉幕府の創始者であり、栄光に満ちたその生涯は、さぞかし満足なものであったろうと思われるが、必ずしもそうでもなさそうだ。
頼朝は清和源氏の棟梁義朝(よしとも)の3男、熱田大宮司藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘を母とし、久安3年(1147)に誕生する。父義朝は藤原信頼に誘われて平治の乱に加担したが、幽閉していた二条天皇を平清盛に奪われるなど、失態をおかして敗北し、父はもとより兄など頼るべき親族を全て失った。13歳のことである。平治の乱自体は頼朝の失敗であったとはいえないが、彼の人生にとって最も大きな挫折・危機であったことは確かである。
清盛の継母池禅尼(いけのぜんに)の助命もあって首はつながったが、伊豆へ配流(はいる)となり、そこで20年余の歳月を送ることとなる。
この助命は母方の親族から禅尼への働きかけがあったためと考えられ、また配流先での生活を支えてくれたのは、乳母の比企尼(ひきのあま)夫妻や親しい旧臣たちであった。この最もつらい時代に受けた恩への感謝は深く強いものであったようで、彼等への厚遇は生涯、変わることはなかった。偏愛・偏執ともいえる身内への思い入れの深さ、それが頼朝のパーソナリティの特徴であり行動原理ともなった。
頼朝に再び世に出るチャンスが訪れたのは、治承4年(1180)の以仁王(もちひとおう)の挙兵であり、平家追討の令旨が頼朝の許へ届けられた。
王の挙兵は不発に終わったが、頼朝は挙兵を決意し伊豆目代山木兼隆(やまきかねたか)の攻撃を合戦の手始めと定める。もちろん平家の全盛期であり、勝機がいかほどあるかも分からない。そこで頼朝は、味方に参じた工藤茂光(くどうもちみつ)・土肥実平ら武士一人ひとりを閑所(かんじょ)に招き、「汝のみが頼りだ」と懇切に説いた。
また悪天候に阻まれ、やつれた駄馬に乗ってようやくたどり着いた佐々木兄弟を、「遅いではないか」と涙ながらに迎える。頼朝は血筋こそ武家棟梁嫡流ではあったが、当時はただの流人で、与える所領も宝物もない。裸一貫に等しい頼朝が武士達に与えることができたのは、感謝と愛情のみであった。しかし挙兵は成功し、平家追討・鎌倉幕府の創設へといたるのであるから、感謝と愛情の作戦が功を奏したといえよう。
監修・文/菱沼一憲
(『歴史人』2021年9月号「しくじりの日本史」より)