源頼朝の征夷大将軍就任にはどのような意味があったのか?
今月の歴史人 Part.2
1192年、源頼朝が征夷大将軍に就任した。一般的なイメージとしてこの瞬間に鎌倉幕府ができたと考えている人も多いはず。だがそれは後世に室町幕府、江戸幕府がそうであっただけで、鎌倉幕府は異なる。では実際、源頼朝将軍就任にはどのような意味があったのだろうか。就任後に起こった曽我事件とともに解説していく。
鎌倉幕府の成立は「イイクニ創ろう」か?

『源頼朝 富士の裾野巻狩之図』 征夷大将軍となった頼朝は権威を示すため、各地で大規模な巻狩を開催。そこに住む人々に幕府を支配を示す効果があった。(国立国会図書館蔵)
かつて「イイクニ創ろう鎌倉幕府」で、建久3年(1192)は幕府成立の年とされてきた。
これは同年7月に源頼朝が征夷大将軍に任官したことによる。同5年に辞任するが、以後、息子の頼家・実朝はじめ、後の摂家・親王将軍であっても征夷大将軍への任官が鎌倉殿・武家棟梁の表象となる。それは後世に成立していく室町幕府・江戸幕府においても継承され、武家政権の首長の帯びる官職として「将軍」は踏襲されてゆく。
平安時代初期、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられ蝦夷追討を成功させた。征夷大将軍は戦地において天皇権力の行使が許可された特別な官職で、具体的には徴兵権・兵粮徴収権・恩賞給付権などが一括委託される。つまり蝦夷追討にあたっての全権委任というわけだが、天皇の実権が縮小した鎌倉時代以降では、その権限が実行できるかどうかは実力次第となった。つまり頼朝の征夷大将軍任官は後世への影響は大きいが、幕府成立にとって実質的な意味は大きくはなかったといえる。現在、文治元年(1185)の「イイハコ創ろう」の諸国守護地頭設置が、幕府の実質的成立とされるのはそうした理由からである。
源平合戦から始まった内乱が終結し頼朝が上洛を果たして武家政権がかたちづくられると、次に頼朝にとっては、その権力をいかに強化・継承してゆくかが課題となった。行政機関としての政まん所どころの設置、地方統治機構である守護制度の構築、対抗者たりうる甲斐源氏の安田義定・弟の源範頼の粛清、泰平の世の到来を象徴する東大寺・興福寺の復興、源家の権威を確立するための大姫入内工作といった諸政策がそれである。
権威を示す頼朝の大行事中に起こった「仇討ち」事件

曾我物語
「赤穂浪士の仇討ち」などと並ぶ日本三大仇討ちのひとつに数えられ、歌舞伎などの人気演目となった。(国立国会図書館蔵)
建久4年(1193)3月から6月にかけて催された、信濃三原・下野那須野・駿河富士野での大規模な巻狩も、幕府の基盤を強化してゆく政策の一つである。
頼朝は多数の御家人を巻狩に動員し、長期にわたり関東を巡回する一大イベントを挙行した。巻狩が催された信濃・下野・駿河地域は、幕府の中核である相模・武蔵を取り巻く周縁である。この周縁地域を大軍で巡回することで、そこに住む人々をはじめ鎌倉殿の支配基盤を地域的に確定するという意味を持った。
嫡子・頼家の後継者披露も兼ねたこの盛儀の場で、予想もしなかった騒動が起きる。「曾我兄弟の仇討ち事件」である。兄弟の実父は河津祐通(祐泰とも)で、伊豆の有力武士・伊東祐親の嫡子として将来を嘱望されていたが、若くして工藤祐経の刺客により非業の死を遂げる。祐通の遺児である祐成・時致兄弟は、曾我祐信の養子となり成長するものの、祖父・伊東祐親が頼朝の敵人であったため、出世の道を絶たれ苦境にあえいでいた。悲運の中で工藤祐経への恨みを募らせた兄弟は祐経をつけ狙い、ついに5月28日、仇討ちを決行し、みごと祐経を討ち果たした。
ここまでなら普通の仇討ち事件で済んだが、さらに兄弟は愛甲季隆・加藤光員ら手練の御家人多数に手傷を負わせ、さらには頼朝の宿所に迫る勢いであった。兄弟の攻撃は祐経のみならず、頼朝政権そのものに向けられている。奇襲とはいえ若輩2人によって多くの御家人が斬られ、頼朝まで危機に陥るといった事態は不可解だ。兄弟の烏帽子親であった北条時政による頼朝暗殺計画説などが提唱されるのもうなずける。
事件の背後関係は不明であるが、強引に権力の集中を図る頼朝に対する反発が、この事件の背景にあることは確かだろう。頼朝権力の後継者に指名された頼家の失脚、その後継将軍・実朝の悲劇。そうした将軍権力への攻撃の一端は、すでに姿を現しつつあったのである。
監修・文/菱沼一憲