武家の頂点を極めた源頼朝がわざわざ上洛した理由
今月の歴史人 Part.1
平家を滅ぼし、いよいよ武家の頂点を極めた源頼朝は、ついに悲願の上洛を果たす。頼朝はこの上洛を機に何を為し、どんな狙いをもっていたのか、史実に沿って思惑をひも解く。
挙兵から10年、ようやく頼朝は上洛し法皇に謁見

源頼朝上洛 頼朝はこのとき44歳。14歳で伊豆に流されて以来 の京への帰還は30年ぶりとなった。(東京都立中央図書館蔵)
建久元年(1190)11月7日の夕方、前日からの雨は止んだものの、激しい寒風が吹き付けるなか、源頼朝は御家人338名を率いて京都に新築した六波羅(ろくはら)邸へ入った。総勢30万騎とも称される行列は、水干姿で黒毛に騎馬する頼朝の前後に、武装した騎馬兵が従う行軍隊形、つまりは軍事パレードである。貴族らによる優雅な行列とは全く異質なこの光景を、後白河法皇はじめ大勢の人々が見物した。法皇はこれから対峙する難敵の到来に固唾(かたず)を呑んだか、 はたまた目新しい鎧武者のパレードを楽しんでいたのであろうか。
上洛2日後の9日、頼朝は院御所六条西洞院へ参上すると、法皇とふたりきりで長時間にわたり対談し、法皇の慰留を辞して内裏に参じ、天皇、摂政・九条兼実(くじょうかねざね)と対面を遂げる。 六波羅に帰ったのは深夜12時前、忙しい一日であったろう。この後、法皇との対談は12月半ばに関東へ下向するまで8回にも及んでおり、今回の上洛の目的がこの法皇との折衝にあったことを伺わせる。そもそも上洛は頼朝が申請したもので、頼朝側にその必要があったのだ。
上洛の翌年3月、朝廷は新制を発令し源頼朝に全国の「海陸盗賊放火」 など重犯罪の追捕を命じ、また同時期には守護を介した内裏の警備役である京都大番役が整備される。守護は頼朝から国単位に任命され、国内の御家人を束ねて治安維持にあたる地方統治機関である。全国の治安維持・京都の警固といった国家の守護者に位置づけられた頼朝は、全国に配備した守護・御家人により、 その職務を全うする体制を構築した。守護の前身は守護人・惣追捕使(そうついぶし)などという名称で内乱期から臨機に設置されていた。内乱期に戦乱状況の中で頼朝が担ってきた国家守護の法整備と恒常化が進められている。頼朝上洛時での法皇との対談では、こうした内乱後体制の構築が主な内容であったものと考えられる。幕府が公的な治安維持機構として確定する契機、そのようにこの上洛は意義づけられよう。
全国の治安維持と京都の警固とは、ともに朝廷にとって都合の良いことで、わざわざ申し出なくても良さそうだ。そんな厄介な仕事を背負い込んだのは、 それが鎌倉幕府にとって必要だったからに他ならない。国家守護の職務があったからこそ幕府は存続しえた。
頼朝は鎌倉に帰還する前日、法皇へ上総広常(かずさひろつね)殺害の理由を語っている。広常が味方に付いてくれたからこそ関東で勝利できたが、広常は「朝廷を尊ぶ必要などない、坂東を保持すれば良い」と謀反の心を持ったので討ったという。この話を聞いた『愚管抄(ぐかんしょう)』の作者・慈円(じえん)は、まさしく「朝廷の宝」だと頼朝を賞賛する。朝廷を尊敬し守護する頼朝、頼朝を信頼し国家的軍事警察権を委託する朝廷、この信頼関係の確立こそが上洛の目的であった。

後白河法皇 「比類少き暗主」と評され、 30年にわたり 圧倒的権力をもった。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)
法皇と頼朝の対談により互恵的な体制づくりが模索されたわけだが、 もちろんそれはバチバチと火花を散らす対決の場でもあったろう。頼朝は摂政九条兼実との会談の中で、法皇御万歳(崩御)後に言及しているし、法皇は対面を通じて頼朝を飲み込もうと舌なめずりしていたに違いない。『古今著聞集』にはそんな逸話が載る。法皇は秘蔵の絵巻を頼朝へ見せようと遣わした。めったに目にすることも叶わない宝物であり、 さぞや喜ぶことだろうと思っていたが、頼朝は畏れおおいと一見もせずに返上したという。法皇の圧倒的な権威、それを文化面で象徴するのが秘蔵の宝物類である。法皇は日本の中心である京都を背負う立場の存在であり、頼朝は中央の絶対的に強大な伝統・権威と対峙しなければならなかった。少しでも油断すれば飲み込まれる。拝任直後に中納言・大将を辞任したこと、宝物の辞退などは、なにごとにも用心深く慎重な頼朝らしい対応といえよう。
監修・文/菱沼一憲