義時・政子の弟である北条時房の役目とは?
「歴史人」こぼれ話・第25回
比企能員(ひきよしかず)の乱からその名が目立ってゆく義時の弟・北条時房(ほうじょうときふさ)。源頼家(みなもとのよりいえ)の命により、時連(ときつら)から名前を変えたと言われており、本来は頼家の側近でありながら、主人が粛清される一方でお咎めはなかった。彼はいったいどのような立場で自らの権力を獲得していったのか? 義時の子・泰時(やすとき)や次世代につながる時房というキーマンを探る。

頼家の命により、時連から名前を変えたと言われる北条時房『星月夜』国立国会図書館蔵
鎌倉幕府を立ち上げたのは、いうまでもなく源頼朝である。それにもかかわらず、頼朝の死後百数十年もの間、実質的にその支配者となったのは北条氏であった。頼朝の跡を継いだ頼家が排除されて13人の合議制が敷かれた(わずか1年で解体)のを手始めとして、その後義時が、梶原景時や比企能員ら有力御家人を次々と排除。2代将軍・頼家まで暗殺して、北条氏の力を見せつけた。跡を継いだ3代将軍・実朝の時でさえ、それを補佐するとの名目で、執権(幕府における訴訟の最高責任者)の地位に収まってしまったからである。
その意味では、北条氏による執政政権の礎を築いたのは義時といえそうだが、それでも彼の存命中はまだ、和田一族など有力御家人の力を完全には排除しきれていなかった。
北条氏絶対有利の執権政治を確立したのは、むしろ義時の子・泰時と、それを支えた義時・政子の弟・時房の時代だったと見るべきだろう。中でも、初代連署(副執権)として、甥である執権・泰時を支え続けた時房の存在は、計りしれないほど大きい。
この御仁、実は若いころから大の蹴鞠(けまり)好きで、それが気に入られてか、2代将軍・頼家に側近として仕えたといわれる。頼家といえば、世の苦難を顧みず、連日蹴鞠に明け暮れていたというところから、暗君とまで評される御仁。それだけなら北条氏にとってむしろ扱いやすいとも言えそうだが、その実、北条氏にとって目障りな存在だった比企氏一族を引き立てようとしていた。そのため、義時が比企氏を策に陥れて排除してしまう。
その上で、将軍・頼家まで暗殺してしまったのだ。ただし時房は、頼家の側近だったにも関わらず、お咎めを受けることがなかった。そのため、実は時房、北条一門の間諜(かんちょう)だったと、まことしやかに語られることもある。
その真偽はともあれ、その後時房は武蔵守や六波羅探題を経て、前述の連署にまで任じられ、政権の中枢へと上り詰めていったのだ。
義時から見ればひと回り(12歳)も歳下の弟であったものの、自身亡き後、我が子・泰時を支えてくれるものとして、期待を寄せていたのである。そしてその時房も、兄の期待に応え、北条氏による盤石な執権政治の確立に大きく貢献したのである。