源義経が死地で亡霊となって荒れ狂う「高館物怪」伝説
鬼滅の戦史78
兄・源頼朝に追い詰められて死を選ばざるを得なかった源義経。その無念の思いが、死後に「高館物怪(たかだてもっけ)」と呼ばれる怨霊となって荒れ狂ったという。ただし、ある剣舞を舞うことによって鎮まったとか。今も演じられ続けているその剣舞とは、いったいどのようなものだったのだろうか?
奥州の泰衡に裏切られて無念の自害
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金鶏山にある無念の死を遂げた義経妻子の墓/フォトライブラリー
平家滅亡に最も貢献した武将といえば、源義経をおいて他にない。しかし、その華々しい活躍ぶりがかえってアダとなり、兄・頼朝に命を狙われるようになったというのも、よく知られるところである。それを頼朝の狭心のせいと見なすこともできそうだが、支配体制の確立が急務であった時の流れからすれば、頼朝を一方的に非難することは不適切というべきかもしれない。
ともあれ、義経は京の都を追われた。西国に拠点を移して再起を図ろうとしたものの、大物浦を出航したところを暴風雨に見舞われて失敗。吉野山中へ逃れた後、山伏姿に身をやつして北陸道をたどり、かろうじて奥州平泉にたどり着くことができた。それが、文治3(1187)年2月のことであった。奥州藤原氏3代当主・秀衡(ひでひら)に快く迎え入れられ、しばし妻子及び家臣数名と共に、平穏に過ごすことができたようである。
しかし、頼りとする秀衡も、同年10月に死去。跡を受け継いだ泰衡は、頼朝からの執拗な要請を拒みきれず、とうとう義経殺害へと舵を切ってしまったのである。
文治5(1189)年閏4月30日のこと、平泉町高館にあった衣川館(奥州市衣川接待館遺跡の可能性も)に、泰衡が率いる500騎もの兵が襲いかかったのだ。対して義経側は、武蔵坊弁慶をはじめとする10数騎のみ。この圧倒的に不利な状況は如何ともし難く、ついに義経は高館の持仏堂において、正妻・郷(里)御前と4歳になる娘を刺し殺した後、無念の死を遂げたのである。その時の義経の恨みたるや、想像を絶するものがあったに違いない。それからしばらくして義経の首は鎌倉へ送られ、胴は宮城県栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと見られている。
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源義経終焉の地・高館の義経堂(岩手県奥州平泉)/フォトライブラリー
荒れ狂う義経の怨霊
ところが奇妙なことに、義経が自害した翌日から、彼の亡くなった持仏堂辺りから、毎夜のように太鼓の音が聞こえるようになったという。耳を澄ましてよく聞けば、まるで死者たちのうめき声にも聞こえたとか。これには、泰衡を始めとする奥州藤原氏の人々も恐怖におののいたようである。それが、自らが死に追い込んだ義経とその配下たちの怨霊のせいであると信じたからであった。
すぐさま陰陽師(おんみょうじ)を呼んで祈祷させたものの、一向に止む気配がなかった。そればかりか、そのおぞましい声が、泰衡の屋敷の伽羅御所にまで聞こえてくるように。そこで一計を案じたのが、義経が生前好んでいたという剣舞を披露することであった。これは一次的には功を奏したようで、演者が舞っているうちだけ声が止んだとか。しかし、舞いが終われば、元の木阿弥。困り果てたものの、剣舞だけは続けたようである。
不思議なことが起きたのは、剣舞を演じ始めて7日目のことであった。どこからともなく1匹の猿が現れ、共に舞い始めたというのだ。と、驚くことに、そのおぞましい声が、それ以降ピタリと止んで、再び人々を苦しめることがなかったという。
実はこの猿こそがお釈迦さまの化身で、彷徨う義経らの霊を慰めるために現れたというのである。
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義経の怨霊を鎮めるための剣舞(朴ノ木沢念仏剣舞)/フォトライブラリー
義経の霊を慰める剣舞は今日も健在
もちろん、その言い伝えにどれほどの真実が盛り込まれているのかは計り知れないが、今も奥州市の胆沢や江差などにおいて、高館物怪の名の元に、義経の怨霊を鎮めるための剣舞(朴ノ木沢念仏剣舞/ほおのきざわねんぶつけんばい)が演じられているようである。鬼の面を付け、腰に剣を刺した姿で、笛や太鼓などに合わせて、派手に踊るという伝統芸能である。猿のお面を着けたカッタカと呼ばれる釈迦の化身も登場。荒れ狂う武者を鎮めるという意が込められているのだとか。
ともあれ、義経の無念に共感し、その霊を慰めたいとの想いから、このような行事が長く続けられているのだろう。義経らの苦しみは、剣舞という芸能にかたちをかえて、この地の人々に今日まで伝わっているのだ。