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梶原景時が洞窟に隠れる頼朝を助けた理由とは?

鬼滅の戦史75


『鎌倉殿の13人』において、中村獅童氏が演じる梶原景時(かじわらかげとき)。史料上では義経ばかりか、御家人たちをも讒言(ざんげん)で陥れた冷徹な武将とされている。劇中では、その人間性を鋭い眼光で演じたことで、見る者を背筋も凍るような面持ちにさせている。その景時は、死して後、亡霊となって回向(えこう)を願い出たともいわれているが、いったいなぜなのだろうか?


洞窟に潜む頼朝を見逃す

2代将軍頼家の13人の合議制になると、御家人たちに排斥された景時は、梶原山に追い詰められて戦死する。『梶原景時源平盛衰記図会』秋里離島作/国文学研究資料館蔵

 梶原景時とは、言うまでもなく石橋山の戦い(1180年、小田原市)に敗れて洞窟内に隠れ潜む頼朝を、わざと見逃したことで知られる、もと平家側の武将である。

 

 この時、頼朝は以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて挙兵。伊豆目代(もくだい)の山木兼隆(やまきかねたか)を討ち取ったところまでは良かったが、大庭景親(おおばかげちか)らの反撃にあって敗走する。箱根山中の「しとどの窟」(神奈川県足柄下郡湯河原町)に、岡崎義実ら6騎とともに隠れていた。それを、捜索中の景時が発見。すぐさま味方に知らせて討ち取れば良かったものを、なぜか見て見ぬ振りをして、立ち去ってしまったというのだ。

 

 この時のやり取りは、軍記物語『源平盛衰記』が詳しい。それによれば、景時が怪しげな洞窟に単身で入った時、頼朝らが潜んでいることを確認したとする。景時が、頼朝と顔を見合わせた、つまり目と目があったことも記されている。それにもかかわらず、景時は「この穴の中には人一人もいない。コウモリだけが沢山いる」と声を張り上げて、味方の兵たちを立ち去さらせようとしたのである。

 

 今一度詮議(せんぎ)せよとの命を受けた長尾新吾が穴に入ろうとするのを、「俺の言うことが信じれぬのか」とばかりに、新吾の草摺(くさずり)を掴んで引き戻したとも。よく言われるところの「お助けしましょう」や「恩義をお忘れなく」との弁が本当なのかどうか定かではないが、顔を見合わせた際のアイコンタクト、すなわち暗黙の了解として、そのようなやりとりがあったものと考えたい。

 

 ただし、石橋山の戦いの際に、すでに景時は頼朝の配下として付き従っていたとの記録(『愚管抄』)もあるところから、洞窟内でのやりとりは『源平盛衰記』作者による作り話とする説があることも、付け加えておこう。

 

教養も高く頼朝に忠実だったとも伝わる梶原景時/国立国会図書館蔵

 

功労者として重要ポスト・侍所所司に就任

 

 それでも、もしもこの「しとどの窟」でのやりとりが史実だったとすれば、景時が頼朝を見逃したことの意義は、計り知れないほど大きい。これによって頼朝が命を救われ、その後の源氏再興、平家討伐、幕府創設などへと繋がっていたからである。頼朝にとっての命の恩人というばかりでなく、後の鎌倉幕府にとっても、最大の功労者として褒め称えられるべき人物であったことは間違いないのだ。

 

 その後、東国武士らに押し立てられた頼朝が再挙。平家軍を撃破していく中で、景時は頼朝に降伏。洞窟内で見逃してくれた男が景時と知った頼朝が、彼の期待に応えたことはいうまでもない。教養もあり、弁舌も立つことから、鶴岡若宮(鶴岡八幡宮)の造営や囚人の監視などをはじめ、侍所所司という、御家人の統制を行う重要ポストにまで就任させたのである。

 

御家人たちに恨まれて排斥

 

 ちなみに景時といえば、平家討伐に突っ走る天才軍師・義経との確執がよく知られるところである。屋島の戦い(1185年)における逆艪(さかろ)論争や、壇ノ浦の戦いにおける先陣争いなど、ことあるごとに対立していた。義経に恨みを抱いていた景時の讒言によって、頼朝が弟・義経に危機感を抱いたこともおそらく事実だろう。景時の讒言は、頼朝に寄り添う余りのことであったとはいえ、そもそもは冷徹な性格、思いやりのなさに起因するものであった。

 

 景時が洞窟内に隠れていた頼朝を助けようとしたのも、穿った見方をすれば、景時の打算、つまり源氏の世が来た時でも生き残れるように布石を打っておいたと考えられるのだ。

 

 梶原家がもともと坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の流れを汲む鎌倉氏の一族であったにもかかわらず、後三年の役(1083〜1087年)では源氏に仕えた。平治の乱で源義朝が敗れるや、再び平家に与み従うなど、氏族自体が源平間を渡り歩いていたことも考慮に入れておくべきだろう。

 

 この日和見的な性格あるいは動向が、結果として、景時の晩年に大きな影を落とすことになったようである。頼朝が亡くなった後、2代将軍頼家が跡を継いだものの失政。景時が13人の合議制の一員に加えられたのもつかの間、横暴かつ誹謗中傷が絶えぬ景時に、御家人たちがこぞって排斥へと動いた。結局、景時は一族を率いて反乱。梶原山において、一族もろとも討ち取られてしまうのであった。

 

50余年後に亡霊となって出現

 

 もしかしたら景時は、死の間際まで、これほどまで御家人たちに忌み嫌われていたということに気がつかなかったのかもしれない。その死から50余年も過ぎた頃、創建されて間もない建長寺で催された施餓鬼(せがき)会において、亡霊となって現れたからである。自分が撒いた種による死だとは思わず、謀られたとの思いがあったのかもしれない。

 

 ともあれ、騎馬のまま現れた景時が早々に終わってしまった施餓鬼会を残念がる様子を見て、当時の大覚禅師(だいがくぜんじ)が彼のためにもう一度催し直したとか。これに喜んだ景時は、自ら「梶原景時の霊である」と名乗りながら姿を消したのだという。自ら成仏できぬことを憂いて、その回向を願い出たのだろう。ここにおいてようやく、成仏できたのである。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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