阿野全成、源義経、義円の命を救うために清盛の妾にならざるを得なかった母・常盤御前の末路とは?
鬼滅の戦史71
阿野全成(あのぜんじょう)や源義経らの母である常盤御前(ときわごぜん)。彼女は夫・義朝(よしとも)を殺され、老いた母と3人の子の命と引き換えに清盛の妾(めかけ)となった悲運の女性であった。末っ子の義経会いたさに奥州に向けて旅立ったものの、盗賊に襲われて命を落としたとの物語も伝えられている。それは果たして本当だったのだろうか?
夫・義朝を殺された挙句、清盛の妾に
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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場している阿波局の夫・阿野全成。『武家百人一首』(賞月堂主人著、玉蘭斎貞秀:画 国文学研究資料館蔵
常盤御前とは、いうまでもなく、源義経の母のことである。もともと近衛天皇の中宮・藤原呈子(ふじわらのていし)に仕えた雑仕女(ぞうしめ/召使い)で、平治の乱に敗れて無念の死を遂げた源義朝に寵愛されて、3人の子を産んだ。
今若(阿野全成)、乙若(義円)、そして牛若丸(義経)である。義朝は乱に敗れて家人・長田忠致(おさだただむね)宅に身を寄せたものの、恩賞目当ての長田に裏切られて落命。妻・常盤は、3人の子を抱えたまま逃走せざるを得なくなったのである。這々(ほうほう)の体で宇陀(うだ)へとたどり着いてしばらく潜むも、老いた母が捉えられたことを耳にして逃走を断念。子を抱えたまま、六波羅の清盛のもとに出頭して母の助命を乞うのであった。
この時、常盤23歳。もともと日本一の美人との誉が高かっただけに、この若き未亡人に清盛の心が揺らいだことも無理のないことであった。「この女性が欲しい!」と言ったかどうか定かではないが、「情のみちに迷い込んだ」ことは間違いない。清盛に身を委ねることを条件に、母と子の命を救ったのである。
その後、清盛との間に一女(廊御方/ろうのおんかた、後に建礼門院と共に源氏の捕虜となる)をもうけ、さらには大蔵卿の藤原長成(ながなり)に嫁いで、能成(よしなり/後に義経の側近となる)をも産んだ。波乱に富んだ常盤の人生も、これでようやく安逸の日々が過ごせる…かのようであった。しかし、彼女の運命は、この後もなお、穏やかになることはなかった。
源平合戦の果てに平家が破れ、さらには息子である義経までもが、兄・頼朝に追われて都落ちしてしまったからである。結局、義経の妹と共に捕えられたようである。ただし、その後どうなったのかは不明。詳細が書に記されることはなかった。放免されたと見なす向きもあるが、それさえ推測に過ぎない。要するに、わからないのである。
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奥州へ向かったとされる常盤御前。『木曾街道六十九次之内』「伏見」「常磐御前」「五十一」歌川国芳画/都立中央図書館特別文庫室蔵
『山中常盤』に描かれた常盤の悲運
史実として明確に語れるのは、ここまでである。これ以降の常盤の動向は、物語としての人形浄瑠璃や絵巻に描かれた『山中常盤』を頼るしかない。もちろん、物語ゆえ、そこにどれほどの真実が込められているのか定かではないが、興味深い事績が数多く含まれているので、参考にしておくべきだろう。まずは、その概要から見ていくことにしたい。
義経が藤原秀衡(ひでひら)を頼って、奥州へ下った後のことである。牛若丸からすでに義経と名を改めた、15歳春のことであった。突如行方知れずとなった義経を案じる母・常盤。そこに、奥州の義経から無事を知らせる文が届く。喜び勇んで奥州へ向かおうとする常盤。事件が起きたのが、山中(岐阜県関ヶ原町)の宿にたどり着いた時のことであった。突如、盗賊が常盤の部屋に押し入り、無残にも彼女を刺し殺してしまったのだ。
ちょうどその頃、奥州にいる義経の夢枕に、母・常盤が立ち現れたとか。胸騒ぎを覚えた義経が急ぎ京に向かうや、件の山中の宿に差し掛かったところで、儚くも母の死を知ることになるのであった。もちろん、義経が敵討ちを決意したことはいうまでもない。宿にお大尽が泊まっているように見せかけて、盗賊をおびき寄せたのである。
義経の計略に嵌(はま)って押し寄せてきた盗賊たちに、義経が様々な術を使って撃退。無事、母の仇を討つことができたのであった。
それから3年3カ月の後のこと、平家打倒の大軍を率いて同地を通りがかった義経。母の墓前で冥福を祈るとともに、敵討ちに手を貸してくれた宿の主人に三百町もの土地を与えて、恩に報いたとのことである。
時代の奔流に巻き込まれながら、激動の生涯を送った常盤御前。その仇を愛息・義経が討ち果たす逸話が今日まで残っているのは、その無情な最期がおもんばかられるゆえではないかとも思えるのだ。