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義経上陸の地・小松島市に伝わる「阿波狸合戦」の真相とは?

鬼滅の戦史70


かつて人気を博したジブリ作品の『平成狸合戦ぽんぽこ』。そのモチーフともなったという逸話が、四国に伝わる「阿波狸合戦」であった。狸同士が徒党を組んで戦うという物語であるが、実は史実にもとづいた話であったともいわれる。いったいどのような内容だったのだろうか?


映画化もされた狸の合戦物語

映画化もされた狸の合戦物語

 徳島県小松島市といえば、かの源義経ゆかりの地として知られる地。平家討伐を目指し、嵐をも顧みず渡辺の津を出立(しゅったつ)した義経が、命からがら上陸した場所である。休む間も無く屋島に向けて行軍を続け、奇襲によって平家軍を屋島から追い出している。その上陸後に登って源氏のシンボルカラーである白い旗を掲げたとされるのが旗山(標高20m)で、現在では高さ6.7mもある義経騎馬像が置かれている。義経ファンにとっての聖地であることは間違いない。

 

 今回の物語の舞台は、そこから北側を見下ろした一帯。小松島町や日開野(ひがいの)町、中田町といった小松島港に面したエリア周辺と、さらにその北、徳島市南部を流れる勝浦川両岸辺りが、今回紹介する合戦が繰り広げられたところである。

 

 と、ここまで説明したところで、ハタと首をひねる人がいてもおかしくはない。江戸時代までに、こんなところで合戦があっただろうか?と思うのが自然なのだ。

 

 実は、戦ったのは人ではない。人を騙すのが上手い、あの「狸」同士の戦いで、徒党を組んで敵味方に分かれて派手な戦いを繰り広げたのだ。それが史実でないと誰もが思いがちであるが、実のところ、全くのデタラメかとなると、あながちそうではないというところが面白い。

 

 この物語がいつから言い伝えられたのか定かではないが、文献として記されたのは、明治43(1910)年に刊行された『四国奇談実説古狸合戦』が最初のようである。後に講談として取り上げられたことで人気が沸騰。昭和14(1939)年の映画『阿波狸合戦』(新興キネマ)を皮切りとして、『続阿波狸合戦』(1940年、新興キネマ)、『阿波狸屋敷』(大映、1952年)、『阿波おどり狸合戦』(大映、1954年)、『阿波狸変化騒動』(新東宝、1958年)と何度も映画化された。そればかりか、平成6(1994)年には、ジブリ作品『平成狸合戦ぽんぽこ』がこのお話の一部をモチーフとして取り入れたから、ご存知の方も多いはず。ともあれ、まずはその概要から見ていくことにしよう。

 

600匹もの狸が集結して、三日三晩の死闘を繰り広げる

 

 時は、義経が駆け抜けた時から数えて数百年も後、江戸時代も末期のことである。事の発端は、日開野村(小松島市日開野町)の子供達が、枯れ草を燃やして洞窟に潜む狸を苛めていた事であった。

 

 これを見た染物屋(大和屋)の主人・茂右衛門が、哀れに思って助けてやったことから物語が始まる。不思議なことに、それから間も無く、万吉と名乗る者が大和屋で働き始め、客の病を癒したり易を見たりして評判を呼び、店はますます繁盛し始めたという。狸の頭目(とうもく)であった金長(きんちょう)が万吉に取り憑いて、恩返しとばかりに働き始めたからであった。

 

 その後金長が、勝浦川対岸の津田(徳島市津田町)に住む狸の総大将・六右衛門のもとに修行に行くことに。狸としての正式な位である正一位を得ることが目的であった。懸命に修行に励んだ成果もあって、抜群の成績をあげた。

 

 この優秀な金長に対して、敵対すれば恐ろしい勢力になることを危惧した六右衛門が、自らの陣営に組み込むことを目論んで、娘の婿養子になるよう持ちかけたのである。金長は茂右衛門への奉公もまだ終えていないことを名目として誘いを断ったものの、実は残虐な六右衛門を嫌っていたことが本当の理由であった。

 

 それを知ってか知らでか、拒まれた六右衛門が激怒。60匹もの狸を率いて金長を襲撃したから大変。金長は這々(ほうほう)の体で日開野に逃げ帰ったものの、助っ人として力を貸してくれた鷹が殺されてしまった。これには、金長の方が怒り心頭。仇討ちのための同志を募り、六右衛門討伐の狼煙(のろし)を上げたのである。これが世に言う所の「阿波狸合戦」であった。両軍合わせて600匹が勝浦川へと集結。死闘は三日三晩に及び、川岸一面に狸の死体で埋まるほどの壮絶な戦いであった。

 

 結局、戦いを制したのは金長の方で、六右衛門を食い殺すことができた。しかし、金長自身も致命傷を負い、程なく命を落としてしまった。それを哀れに思って金長大明神として祀ったのが、前述の大和屋の主人だったとか。

 

 さらに、この戦いには後日談がある。両者の2代目たちが弔い合戦を繰り広げたというのだ。ただし、この時は屋島に住む太三郎狸が仲裁に入ったことで、ことなきを得たとされる。太三郎狸とは、平重盛に助けられた狸の長で、その昔、人間に化けて鑑真や空海を屋島へ案内した狸であったともいわれる。時代が少々噛み合わないが、そこはそれ、化かす事の上手な狸だけに、時空さえ平気で飛び越えることができたと考えることにしておこう。

 

小松島市にある金長たぬきの像 フォトライブラリー

由来は勝浦川の漁業権をめぐる抗争?

 

 ともあれ、この「阿波狸合戦」の舞台となった小松島市には、金長(きんちょう)大明神や金長神社本宮(ともに中田町)の他、高さ5mものタヌキの銅像(小松島町)なども設けられて、町おこしにも一役買っているようである。

 

 不思議なのが、ここからである。市内にはこの金長神社以外にも、狸らのゆかりの遺物が数多く点在しているからだ。一例をあげてみよう。鳳木狸大明神や榎狸大明神(ともに小松島町)、藪狸大明神(神田瀬町)、祐七大明神(金磯町)などの狸を祀る祠の他、大鷹大明神や小鷹大明神、熊鷹大明神(いずれも日開野町)、田左衛門大明神といった助っ人として活躍した鷹や武人まで祀る祠もある。田左衛門なる者は、北辰一刀流の免許皆伝を有していたというから恐れ入る。

 

 ここまで数多くの伝承地とされる遺物が、史跡然として点在していること自体謎めいていて気になるのだ。単なる作り話とは思えない、何かがある。そう思えてならない。

 

 と、案の定、この思い込みは、あながち的外れではなかった。かつてこの地で、とある抗争が繰り広げられ、それがもととなってこのお話が言い伝えられていたからである。

 

 それが、勝浦川を挟んだ小松島(南)と津田(北)の漁業権をめぐる抗争や、勝浦川両岸の砂を巡る争いだったという。藍染が盛んであったこの地域では、津田浦で採れる良質な砂が、藍染に欠かせなかったとか。藍葉の発酵に必要な寝床を作るのに使われたのだろう。良質な藍を作るのに、より良い砂が古くから求められていたのではないだろうか。その争奪戦が、この狸の合戦物語へと形を変えて伝えられたというのだ。

 

 冒頭に登場した大和屋が染物屋であったというのも、それを暗示しているかのようで頷ける。ただし、舞台を屋島にまで広げたのは、義経人気にあやかろうとしたものとも受け止められそうだが、果たして? ともあれ、奇妙ながらも、話題豊富な合戦物語であることは間違いない。

 

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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