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源義仲の臣下であり、男女の関係でもあった巴御前の猛女ぶりとは?

鬼滅の戦史67


平家を都から追い出すことに成功した源義仲(みなもとのよしなか)。その臣下に、名高い女武者がいたことをご存じだろうか? その名は巴御前(ともえごぜん)。一人当千の武者として知られた御仁であった。義仲とは、男女の情を交わした仲であったともいわれる。その情愛が彼女を生き延びさせたと見なされることもあるが、その真実とは?


猛者の首をいとも簡単にねじ切った女武者

義仲とともに戦った女武者・巴御前(右)。『大日本歴史錦繪』一勇斎国芳筆/国立国会図書館蔵

 

 世に、豪傑としてその名を知られた武人は多い。もちろん、そのほとんどが男であることはいうまでもない。ところが、源平合戦の頃には、女武者としてその名を知られた御仁がいた。猛者の首をもいとも容易く捻じ切ってしまうという、実に勇ましい者であったというから恐れ入る。それが、木曽の豪族・源義仲に仕えた巴御前であった。義仲配下として、平家討伐軍に加わって大活躍。腕力も強く、弓、剣の腕前も一流。バッタバッタと男どもを倒していったという。ともあれ、まずはその人物像に迫ってみることにしよう。

 

 時は、平清盛の義弟・時平が、「平家にあらずんば人にあらず」と豪語していた、その直後のことである。「奢れる者久しからずや」といわれたように、平家の繁栄もつかの間のことであった。義仲が、倶利伽羅峠(くりからとうげ)や篠原において平家軍をうち破り、京の都になだれ込んでこれを追い出してしまったからである。

 

 ところが、それから半年も経たぬうちに、今度は義仲の入京を快く思わなかった頼朝の命によって、範頼(のりより)、義経(よしつね)が大軍を率いて義仲を攻めた。かつて平家を打ち破った義仲が、今度は同族に襲われ、宇治川の戦いで大敗を喫して粟津へと落ち延びざるを得なかったのだ。この時、義仲に付き従っていたのは、今井兼平(いまいかねひら)、手塚光盛(てづかみつもり)、手塚別当(てづかのべっとう)など総勢5騎。その中に紅一点として加わっていたのが、女武者として名の知れた巴御前であった。

 

 実は義仲に仕える女武者と言いながらも、その実、便女(びんじょ/身の回りの世話をする女のことか)であったと『平家物語』に記されている。おそらくは、妾としての役割も果たしていたのだろう。二人は主従関係というばかりか、想い想われる男と女の情愛まで芽生えていた間柄であったに違いないのだ。

 

 ともあれ、剛弓の使い手で、刀をとっても一人当千の武者であったというから、猛女と言っても差し支えない武人である。そんな猛者を含めても、味方はわずか5騎。圧倒的に不利な状況に陥ってしまったことで、もはや自害もやむなしと死を悟ったのだ。ここで義仲は、巴御前に向かって「死ぬ時まで女が側にいたと言われては恥」として、「何処へなりとも好きなところに行け」と言い放ったことが『平家物語』に記されている。この時の巴御前の心のうちは記されていないが、それが女である自分を守るための方便であったことは、彼女にもわかっていたのだろう。それでも、女武者としての自覚も、忘れることはできなかった。「最後の戦いぶりをお見せしましょう」と、敵将・御田八郎師重の面前へ駆けて行ったのが、その現れであった。 

 

 それにしても、この時の巴御前の活躍ぶりが、何とも豪快であった。師重の馬の横に並んだかと思った刹那、その首根っこを掴んで鞍の前輪に押し付け、いとも簡単にねじ切ってしまったというから凄まじい。存分に暴れまわって気が済んだのか、直後に鎧も甲も脱ぎ捨て、東国の方へ逃げて行ったという。それ以降の動向は謎のままである。

 

 一説によると、頼朝に召喚された後、和田義盛の妻となって朝比奈三郎義秀を生み、91歳まで生き延びたといわれることもあるが、真相は定かではない。

 

 一方、巴御前が立ち去った後の義仲は、乳母子の今井兼平と共に逃げようとするも、馬が深田にはまって立ち往生。身動きが取れないでいるところを、敵兵に矢を射られて無残な死を遂げたとされている。

 

旭将軍と呼ばれた義仲。『木曽義仲 粟津に敗れる』歌川芳員筆(部分)/都立中央図書館特別文庫室蔵

 

能楽『巴』では主従の「忠義」、男女の「情愛」が複雑に交差

 

 ちなみにこの同じ情景が、能楽作品である『巴』でも演じられているので見てみよう。ここでの義仲の死に至る場面は、前述の『平家物語』に記されたものとは、少々異なっている。

 

 ぬかるみにはまって立ち往生した義仲が深手を負い、それを巴御前が介抱しながら、代わりの馬に乗せて粟津の原にまで連れてきたとしているのだ。ここで共に自害をしようという彼女を義仲が遮り、逃げなければ「主従三世の縁を切る」とまで言って強引に逃したのだとか。無念ながらも立ち去ろうとする巴御前。そこに突如敵が現れたことで、止むを得ず一戦を交えてしまったのだ。これを征してひとまず危機を脱した彼女が義仲のところに戻ったものの、すでに義仲は自害した後。仕方なく、独り落ち延びていったというのである。

 

 その後、木曽の里へと戻ったものの、無念さと後ろめたさが募って、死しても成仏せず、何と亡霊となって粟津の原に漂い続けたという。巴御前の猛者ぶりが凄まじかったことはいうまでもないが、主従の「忠義」、男と女の「情愛」までもが複雑に交差した興味深いお話が繰り広げられているのだ。

 

巴御前ばかりでなく山吹御前も従えた義仲一門。『木曽冠者源義仲及其一門』喜多川歌磨筆/都立中央図書館特別文庫室蔵

女武者である山吹御前と葵御前も従えていた義仲

 

 巴御前に関してのお話はここで終わるが、最後に一つだけ付け加えておきたい。義仲を取り巻く女武者は、彼女一人だけではなかったという点だ。

 

 他の女武者というのは、『平家物語』に記された山吹御前と、『源平盛衰記』に記された葵御前の二人である。山吹御前は、信濃から巴御前と共に義仲に付き添ってきたものの、病を得て義仲最後の戦いには参加できなかったとか。巴御前の姉で、義仲の正妻だったとの説もあるが、真相は不明。

 

 もう一人の葵御前は、倶利伽羅峠(砺波山)の戦いで討ち死にしたと言われるが、こちらも真相は定かではない。それでも、倶利伽羅峠の古戦場跡に「巴塚」と並んで「葵塚」もあるというから、地元では実在の人物だと信じられてきたようである。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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