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「オットセイ将軍」と揶揄された11代将軍・家斉 50人以上いた子どもはその後どうなった?

炎上とスキャンダルの歴史


■50人以上の子をもうけた子だくさんの将軍

 

 『べらぼう』第35回の放送内には、政治に興味が薄い家斉将軍に、松平定信が苦言するシーンがありましたが、その時の家斉の答えをまとめると「余は子作りが得意」だから「政(まつりごと)は、それが得意な定信がやれ」。さらに定信から相談された家斉の父・一橋治済も「各々が得意とすることを、やれば良いのではないか」。

 

 なかなかすごいことをサラッと言っているなぁ……と感じた方も多いのではないでしょうか。11代将軍・家斉の子供の数は男女合わせて53人、いや55人、56人ともいわれるほど。それほど、側室たちが妊娠・出産を繰り返していたということです。

 

 「子作りが得意」という彼の言葉にウソはありませんね。しかし不幸にして成人できたのはその半分程度でした。一説に1512女の計27人(諸説あり)でしたが、彼らの養育費は莫大だったはず。

 

 家斉の子で将軍位を継承したのは次男にあたる家慶(長男は夭折)ひとりで、残る26人は成人後にどうなったのかというと、女子の多くが有力な大名家に正室として嫁ぎ、男子の大半も御三卿など徳川家の「親戚筋」や、有力な大名家に養子として旅立っていったのです。しかし、ここでも支度金・持参金がかかるため、幕府の運営は火の車となってしまいました。

 

 ということで、家斉将軍の特技の子作りは批判の対象となりがちです。治済・家斉父子の血統が他の徳川家の血統だけでなく、日本各地の大名家の血統も乗っ取っていったという「相続テロ」というべき事態でもありましたから。

 

 ところが家斉将軍に「乗っ取られた」というより、「助けてもらった……」と感じる家は案外多かったのかもしれません。

 

 以下は将軍のお側近くにお仕えしてきた先祖を持つ旗本出身の女性・井関隆子が、天保11年(1840年)124日の日記に書いた話です。

 

 御三卿のうちの1つである清水家の初代当主・徳川重好に子供がいないままだったのは、彼が女嫌いで、伏見宮家から正室として迎えた貞子女王が非常に美人だったにもかかわらず、夫婦生活が成り立たなかったのでした。その原因は重好が「男女の道しろしめさず」――つまり同性愛者だったからだとか。この話が本当かどうかはわかりませんが、重好には子供がなく、側室がいた記録もありません。それゆえ家斉の五男・敦之助が養子に入ったものの5歳で夭折してしまったので、清水家は(一時)断絶。最終的に家斉の七男が養子となって、清水家を再興させたのでした。

 

 10代将軍・家治が、若死にした長男・家基に代る後継者を持てぬままで亡くなったとき、その弟にあたる重好には将軍位を継ぐという話すらありませんでした。ここからも重好=男色説は江戸城の人々の中で公然の秘密だったのがわかるようです。

 

 御三家筆頭といわれる尾張徳川家の断絶を防いだのも、家斉の大勢いた男子の1人でした。尾張徳川家の第10代当主・徳川斉朝は、家斉の娘・淑姫を正室としておきながら、やはり男色一本だったので、子作りを拒否。周囲が様々なタイプ、年齢の女性を近づけさせたものの、見向きもせず。ものすごく積極的な女を斉朝の寝所に配置して迫らせたところ、ついにブチギレた斉朝が殴る蹴るの暴行を加えたので、周囲もついに諦め、家斉の11男を養子に迎えることになったそうです。

 

 井関隆子は「猶(なお)くはしうさまざまの事ども」――もっといろんな話を私は聞き知らされたけど、「忘れてしまった」とか「言葉にするのは躊躇される」と言っているので、セクシュアリティにまつわる不穏な話はさらにたくさんあったのでしょうね……。

イラストAC

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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