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子どもたちを捨てて再婚した美貌の未亡人・林きむ子 「大正三大美人」のスキャンダラスな人生とは

炎上とスキャンダルの歴史


■大正の世を賑わせたスキャンダル

 

 柳原白蓮、九条武子とならぶ「大正三美人」の一人として、その名が今日まで伝わる林きむ子――などと始められるとよいのですが、「林きむ子」と聞いて「あぁ、あの人」と思える方は現在どのくらいいるでしょうか。

 

 明治末から大正時代の初期にかけてマスコミを騒がせた「美人」たちの中でもっとも今日的な美貌を持っていたのが林きむ子であり、そんな彼女が柳原白蓮に負けない程度に「スキャンダルクイーン」だったことは覚えておくとよいでしょう。

 

 明治17年(1884年)、きむ子は東京・柳橋に生まれました。7歳からは新橋の高級料亭「浜の家」の養女となり、あらゆる芸事、乗馬、柔術、洋画、さらに当時の国際言語・フランス語まで叩き込まれて成長しました。きむ子は芸術家タイプでしたが、それは彼女の実父母が二人とも日本の伝統音楽・義太夫節の関係者だったことと無縁ではないでしょう。

 

 そして17歳で、アメリカ帰りの実業家にして、立憲政友会の代議士・日向輝武(ひなたてるたけ)から望まれて結婚。大富豪の夫と、その間に生まれた6人の子どもたちと東京・田端の高台の屋敷に暮らしていた時代には、来訪してくる雑誌社・新聞社の記者たちに求められるがまま、「私の美容術」などをコメントするインフルエンサーでもありました。

 

 しかし大正4年(1914年)、日向が収賄事件に巻き込まれて逮捕され、収監されてしまったのです。運が悪いことに日向の事業まですべて右肩下がりで、きむ子は子どもたちを養うために文筆業を開始します。

 

 牢から解放された夫は無念のあまり発狂したので、子育てと夫の介護までもが彼女の両肩にのしかかってきたのでした。そして日向は、きむ子のことを皇后陛下だと思い込んだまま、大正7年(1918年)亡くなってしまいます。

 

 日向の死の前後と思われる時期、きむ子は上野に近い池之端の仲町通りに「瓢々堂」という化粧品店を開いています。ビジネスパートナーは、きむ子より9歳年下の薬剤師にして詩人の林柳波(本名・林照壽)でした。「友人」という触れ込みでしたが、本当はすでに恋人だったのでしょう。

 

 林の全面協力をえて、きむ子は「豊頬液」を謳った「オロラ(=オーロラ)」という美容液を販売開始。乳鉢を使って黄色くドロドロとした液体を手作りし、顧客たちに売りさばきました。「オロラ」は大人気で、売上は1ヶ月あたり500円を下らなかったそうです。大学新卒の初任給が50円〜70円程度だった時代ですから、最低でも月収数百万円でしょう。

 

 しかし、きむ子の前夫の死から1年も経たぬ19191月、彼女が林柳波と電撃再婚というニュースが日本中を駆け巡ると、元ファンを名乗る匿名の人々たちからの「マア情けない」と誹謗中傷の嵐が彼女を襲ったのです。アンチの主張を要約すれば「いい年した6人の子持ち未亡人が9歳も年下の男に入れあげて再婚するなど言語道断」ということでした。

 

 きむ子にも後ろめたい事情はありました。6人の子どもたちのうち、17歳の長女は養育責任放棄、残る3人は知人宅に押し付けてからの再婚だったからです。

 

 当時、仏英和女学校に在籍していた長女・知惠(ちゑ)によると、きむ子からは「あなたはもう女学校を卒業するのだから、あとは一人で生きていってちょうだい」といわれ、捨てられたも同然の扱いを受けたそうです。それゆえ学校に頼み込んで月謝を半分にしてもらい、寄宿舎でくらし、卒業後はそのお礼に教師となって母校で小学生を教えたのでした。林きむ子、なかなかブッとんだ女でした。

イメージ/イラストAC

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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