王権による地方支配を終焉させた源平合戦
内乱の渦中で強靭な意志を鍛えていった義時

宮島(広島県廿日市市)の桟橋広場に設置されている、平清盛像。袈裟を着用した風格のある姿で作られている。
治承4年(1180)から文治年間にかけての戦乱は、源平合戦、治承・寿永の乱などと称される。平清盛による安徳(あんとく)王権に対し、平治の乱で没落した源頼朝が源家再興の戦いを挑むという構図ではあるが、もちろん源氏と平家の政権争いといった平板なものではない。
中世社会の成立という地殻変動をエネルギーとして、全国のさまざまな勢力が、それぞれの利害により軍事行動を起こし、平家政権はそれを制御できなくなっていった。つまり王権による地方支配が崩壊した「内乱」なのだ。王権に背いた謀反人でも勝てば官軍となり、官軍でも敗れたら謀反人となる。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の逆転劇が、次々と繰り広げられることになった。
口火を切ったのは後白河(ごしらかわ)上皇の皇子・以仁王(もちひとおう)で、延暦寺での出家が予定されていたが、王位継承の望みを捨てられず俗人のまま30歳に至っていた。治承3年11月、清盛は突如軍勢を率いて福原から上洛すると、後白河上皇を幽閉しその近臣を排除、安徳天皇の即位・高倉(たかくら)院政の開始を断行する。このクーデターが以仁の命運を決した。翌年4月、全国の源氏へ平家打倒の檄文(げきぶん)を発する。いわゆる「以仁王の令旨(りょうじ)」である。しかし、まもなく謀反は露顕し、園城寺(おんじょうじ)へ逃れて挙兵を試みるものの失敗、南都へ逃れる途中、宇治で平家軍の追撃にあって敗北、戦陣に没した。
しかし以仁の死は内乱の号砲となった。伊豆に頼朝、信濃に義仲(よしなか)、甲斐に武田、近江に山本義経(よしつね)、紀伊に熊野湛増(たんぞう)、豊後に緒方惟栄(これよし)など全国各地で火の手があがる。頼朝は石橋山の戦いに敗れて命からがら安房へ敗走するが、千葉・上総など房総半島の勢力を味方にすると、たちまち武蔵・相模の勢力が味方に参じ、大軍を率いて源家の故地鎌倉に入ることとなった。あれよあれよの大成功、濡れ手に粟、頼朝本人が一番、びっくりしたのではなかろうか。
平維盛(これもり)を大将軍とする東海道追討軍が恐ろしげに駿河まで迫ってきたが、甲斐の武田勢力の動きに過敏に反応して勝手に敗走していった。またしても棚ぼた勝利。しかしもちろん御輿(みこし)に乗せられているにすぎない。このままの勢いで上洛せよと命じたものの、上総広常(ひろつね)・三浦義澄(よしずみ)ら首脳らに関東制圧が先ですと一蹴される。雇われマダムの悲哀である。
頼朝とほぼ同時に信濃木曾谷に挙兵した義仲は、東信濃・西上野の勢力に擁立され、平家与党・笠原(かさはら)氏を駆逐するため善光寺平へ進攻する(市原の戦い)。さらに治承5年6月、同じ善光寺平にて越後・城(じょう)氏を迎え撃ち北陸方面へ進出する(横田河原の戦い)。当初、頼朝と敵対するが、息子・義高(よしたか)を差し出すことで連携がなり、北陸進出を本格化させる。寿永2年6月1日の篠原(しのはら)の戦いで平家軍を壊滅させ、その勢いのまま、同年7月に上洛して平家を京都から追い落とした。政権は反乱軍の手に落ち、平家は賊軍に転じた。
後に執権・連署を独占し幕政を牛耳る北条氏も、激動を生き抜いてのし上がった。伊豆国の地方官として身を権力の末端に置き、目代(もくだい)・山木兼隆(かねたか)に娘を差し出すなど、平家に媚びざるをえなかった北条時政(ときまさ)。さらに義時はその嫡子でもなく、分家として江間(えま)を称したらしい。三浦・武田・小山(おやま)といった大武士団の惣領として大軍を指揮することも、畠山重忠(はたけやましげただ)・熊谷直実(くまがいなおざね)のように武勇で名をどどろかせることもなかった。
しかし義時が、ただ内乱の激流に身を委ねるままだったとは思えない。時代を切り拓いてゆく強靱な意志がなければ、内乱と政争を勝ち抜けるはずがなかろう。
監修・文/菱沼一憲