「亀の前事件」で父・時政よりも頼朝を選んだ義時
信頼を寄せる頼朝と忠誠を誓う義時

「源頼朝諸将を集め平家征伐の先陣を佐々木梶原にのぞむ図」
平家打倒の狼煙を上げた源頼朝(中央)。右手に江間小四郎義時が見える。義経や範頼の他、佐々木高綱、梶原景季、一条忠頼らの名も見える。佐々木高綱と梶原景季は、宇治川の戦いで先陣争いを演じた武将たちであった。歌川国芳筆 東京都立中央図書館特別文庫室蔵
治承(じしょう)5年(1181、この年の7月に養和(ようわ)と改元)4月7日、北条義時にひとつの転機が訪れる。その転機を『吾妻鏡』は次のように記す。「御家人らのなかで、弓矢の芸に優れている者、また心の許せる者を選び、毎夜、頼朝の寝所近辺の警固をさせた」と。
警固人に選ばれたのは、江間四郎(北条義時)、下河辺行平(しもこうべゆきひら)、結城朝光(ゆうきともみつ)、和田義茂(よしもち)、梶原景季(かげすえ)、宇佐美実政(うさみさねまさ)、榛谷重朝(はりがやしげとも)、葛西清重(かさいきよしげ)、三浦義連(よしつら)、千葉胤正(たねまさ)、八田知重の11人であった。いずれも地域有力者かその子弟である。義時は18歳という若さである。
『吾妻鏡』は警固人の先頭に、義時の名を記す。義時はいわば、頼朝親衛隊の長官に選ばれたといって良いのではないか(もちろん、同書は北条氏重視の書物であり、注意が必要な面もあるが)。御家人には「門葉(もんよう)」「家子(いえこ)」「侍(さむらい)」という序列があったと言われる。
「門葉」とは源氏一族のことだ。「家子」とは、御家人やその子弟から、頼朝と親しい者を選抜して作られたグループとされる。「侍」は一般御家人である。義時は頼朝の「家子」でしかも「専一」(第一)と言われた。頼朝挙兵において、大した功績を立てていない義時がなぜそのような重要な立場に選ばれたのか。それは、ひとつには、義時が頼朝の義弟であることが大きいだろう。義時は元暦2年(1185)、源範頼に属して平家討伐のため、西国に下ることになるが、それまでに戦において、功績を立てたという話はきかない。
頼朝は治承4年(1180)11月、常陸国の佐竹氏を攻撃しているが、それにはおそらく義時は参戦していないであろう。どこで何をしていたかは不明である。西国へ出陣するまでの大部分の年月を、義時は頼朝の親衛隊長として過ごしていたと思われる。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の義時に関する説明文に「源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石(ばんじゃく)にした男 2代執権・北条義時」とあるが、それも誇張とは言えないだろう。
もちろん、義時が頼朝から何を学んだかは不明だが、頼朝という優れた権力者の姿を間近で見る機会を与えられたのは事実だ。義時も得るところ大だったのではなかろうか。
亀の前事件で父より主を選ぶ「我が子孫を守る者」と激賞

「月次風俗図屏風」
十五夜の満月の日に繰り広げられた富士山における巻狩の様子。頼朝が催した富士の裾野の巻狩で義時は「家子専一」と賞賛されたが、曾我兄弟が父の仇であった工藤祐経を討つ仇討ち事件が起きる。北条時政による頼朝暗殺も疑われている。東京国立博物館/ColBase
西国出陣までの義時に戦においての功績はない。寿永元年(1182)11月、頼朝の不倫相手の亀の前を、北条政子の命を受けた牧宗親(まきむねちか)が襲うという「亀の前事件」で義時が頼朝から称賛されるという出来事が注目される程度である。
頼朝が、亀の前を襲撃した牧宗親に恥辱を与えたことを、北条時政は怒り、伊豆に下国してしまう。宗親は時政が寵愛する後妻・牧の方の父であったからだ。しかし、義時は父に従わず、鎌倉に残留していたことから「我が子孫を護る者」として、頼朝から激賞されたのである。
義時としては、親衛隊隊長に取り立ててくれた頼朝を裏切り、父についていく気はなかったであろう。頼朝は義時を信頼していたし、義時もまた頼朝に忠義を尽くそうと考えていたのである。「家子専一(いえこせんいつ)」に相応しい態度と言えるであろう。
監修・文/濱田浩一郎