源頼朝や八重姫と過ごした北条義時の青年期
今月の歴史人 Part.2
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がいよいよスタート。今回は主人公・北条義時の青年期とその周囲にいた人々について紹介。源頼朝、八重姫、伊東祐親などに関しての史実と伝承について探りたい。
源頼朝の配流地・蛭ヶ小島と狩野川を挟んだ
北条館対岸にある江間の地と恋物語の伝承
【13歳〜20歳頃 (1175〜1183)】

『吾妻鏡』では、北条四郎義時の他、江間四郎、江間小四郎、江間殿、北条小四郎、江間小四郎殿などの名で登場する。その他、江馬小四郎と記されることもあった。
鎌倉幕府を後に開くことになる源頼朝は、父・義朝(よしとも)が平治の乱(平治元年=1159)で敗死し、自身も平家方に捕らわれて、伊豆国に配流となった。頼朝の配流地は、北条の東に位置する蛭ヶ小(ひるがこ)島とされてきたが、最近では伊東とする説もある。伊豆国の豪族・伊東氏の地である。当時の伊東の当主は、祐継(すけつぐ)であったが頼朝配流直後に亡くなってしまったため頼朝と接点を持ったのは、伊東祐親(すけちか)だ。北条義時の母の父親である。

源頼朝が配流された伊東氏の本拠・伊東は現在、日本中に知られる温泉地として栄えている。
頼朝の流人時代を描いた文学作品に『曾我物語』(室町時代前期の成立か。曾我兄弟の生い立ちから、富士の狩り場で父の仇・工藤祐経を討つまでを描いたもの)があるが、その中に、頼朝の恋愛話が盛り込まれている。伊東祐親には娘が4人いたのだが、その中でも3女が美女として有名であった。流人・源頼朝はこの3女(一説には4女)と恋仲になり、暫くして、男子が生まれる。この子は千鶴御前と名付けられた。

曾我物語(真名本)鎌倉時代に起きた曾我兄弟の仇討ちの軍記物で、頼朝の挙兵から主として東国における合戦の模様ばかりか、源頼朝と政子の物語までも記載。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)
ちなみに、頼朝の子をなしたこの女性は「八重姫(やえひめ)」という名前だったとする言い伝えもある。伊豆には八重姫御堂という八重姫を祀る御堂があるが、八重の名を記す文献史料はなく、実在の人物かも分からない。その土地の言い伝えとして、いつしか語り継がれてきた名であろう。しかし、以降、便宜上、この女性を八重と記述することにしたい。八重の子・千鶴の誕生を頼朝は大いに喜んだというが、逆に激怒した者もいた。伊東祐親である。祐親は京にいて家を留守にしていたが、帰郷してみると幼い男子がいる。聞くと、八重が自分の留守中に流人・頼朝との間にもうけた子であるという。
「源氏の流人を婿に取り、子までいるとなれば、平家よりお咎とがめがあった場合、申し開きできぬ」と祐親は怒ったのだ。そればかりか、千鶴を誘い出し、家来たちに殺害させたのである。さらに、八重を頼朝の手から奪い、伊豆国の住人・江間次郎に再嫁させたという。
この江間次郎を北条義時のこととする言い伝えもある。江間は地名であり、狩野川を挟んだ北条の対岸の地。義時は、後に父・時政から江間の地を与えられたため「江間小四郎」を称することになるが、そのために混同され、生まれた伝説であろう。頼朝の元妻である八重姫と義時が結婚し、八重が長男の北条泰時を産んだという説がある。義時は、比企(ひき)一族の「姫の前」と後に結ばれることになるが、前掲の説をとるとすると、義時は再婚ということになる。
ちなみに、義時の最初の結婚は寿永2年(1183)2月以降と推測されている。『曾我物語』には、亡き江間次郎の幼い子を、江間の領主となった義時が預かり、頼朝に申請し、その罪を許してもらったとある。さらに、義時がその子の烏帽子親(えぼしおや)にまでなり、江間小次郎と名乗らせたというのだ。義時の心中には、八重始め江間の人々に対する同情があったのではないか。特に、義時の胸中には、頼朝との関係を引き裂かれ、子を殺され、再嫁した夫とも死別した悲劇の女性・八重への同情が深かったように思う。その同情が慕情に変わった時があったと推測するのは、想像のしすぎであろうか。
監修・文/濱田浩一郎