鎌倉の谷から切通しを抜けると「鎌倉殿の13人」の痕跡がひしめく
「歴史人」こぼれ話・第20回
鎌倉には、「鎌倉殿の13人」と呼ばれる武士たちが暮らした館の痕跡が残る。谷と切通しを手がかりに、歴史舞台として知られる名所を探ることにより、鎌倉時代の抗争など、様々な背景が見えてくる。
生活の場と防衛としての機能、50カ所を優に超える「谷戸」

鎌倉殿の13人他が住んだと推定される館跡 地図/ジェオ
源頼朝が幕府を開いた鎌倉、その地形は、南は相模湾が開け、三方が山に囲まれているというのが特徴的である。海上交通に便利な上、丘陵に囲われているため、敵の侵入を防ぎやすいという利点があった。
当然のことながら、山あいには幾つもの谷が、ひだのように数限りなく入り込んでいる。これらの谷は、「谷戸(やと)」と呼ばれ、古くから人々の生活の場としての機能を果たしている。鎌倉の地に特徴的なのは、この「谷」を「やつ」と読むことに加え、それの付く地名が多いことである。
比企ヶ谷(ひきがやつ)をはじめ、葛西ヶ谷(かさいがやつ)、松葉ヶ谷(まつばがやつ)、明石谷(あかしやつ)、弁ヶ谷(べんがやつ)、犬懸ヶ谷(いぬかけがやつ)、扇ヶ谷(おおぎがやつ)等々、50カ所を優に超える「谷(やつ)」が存在するというから驚かされる。
興味深いのは、その多くが、様々な歴史舞台として登場している点である。
例えば、葛西ヶ谷は、源頼朝の重臣で、後に親鸞の弟子となった葛西清重(かさいきよしげ)の館があったところ。
松葉ヶ谷は、日蓮が草庵を構えて布教を開始して『立正安国論』を執権・北条時頼に建白したものの、受け入れられず襲撃された(松葉ヶ谷の法難)ところ。
さらに比企ヶ谷に至っては、源頼朝死後に発足した「13人の合議制」を構成した御家人の一人・比企能員(ひきよしかず)の邸宅があったところである。能員は北条時政の排斥を目論んだものの、北条政子の機転によって、先手を打たれて殺されてしまったという、無残な最期を迎えてしまった御仁であった。能員の死後、比企一族は屋敷に立てこもって、北条氏ばかりか、三浦氏、和田氏らの軍勢と戦ったものの敗退(比企の乱)。一族もろとも殺されてしまった。
ただ一人生き残った末子の能本(よしもと/当時2歳とも)が、後に一族の供養のために開いたのが、屋敷跡に建てた妙本寺だとか。能本が前述の日蓮の弟子になったというのも、何やら曰くありげで興味をそそられてしまうのだ。