武田二十四将に名を連ねた、ある武将の裏切り
「歴史人」こぼれ話・第18回
上杉謙信と幾度となく激しい攻防を繰り返し、徳川家康でさえも恐れた「武田二十四将」。その中には、歴戦の強者どもが名を連ねていたが、武田氏の滅亡に加担した武将が実は存在していた。それは誰で、どのような背景があったのか?
武田氏滅亡を導いたのは、御一門衆の穴山信君だった!
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穴山信君も、信玄本陣を守っていた永禄4年(1561)の川中島合戦。「武田三代記信州中島大合戦」/東京都立中央図書館特別文庫室蔵
武田氏を支えた精鋭家臣団・武田二十四将は、比類なき武勇でその名を知られている。
御一門衆の武田信繁や穴山信君(あなやまのぶただ)をはじめ、御譜代家老衆の内藤昌秀(ないとうまさひで)、山県昌景(やまがたまさかげ)、足軽大将衆の山本勘助など、錚々たる面々が顔を揃えている。彼らの活躍があってのこその武田氏躍進であったことはいうまでもない。上杉謙信との激しい攻防を繰り返し、徳川家康さえも恐れさせた強者どもであった。
しかし、二十四将の一人として数えられながらも、武田氏の滅亡に加担した人物がいたことも、忘れることはできない。しかもその御仁、武田氏と何重にも縁を結んだ御一門衆だったというから驚く。それが、穴山信君(穴山梅雪)である。
もともと巨摩郡逸見郷穴山(山梨県韮崎市穴山町)を本貫とする氏族で、武田氏に敵対する逸見氏との対抗上、甲斐武田氏10代の武田信武が、息子の義武を穴山氏へ養子として送り込んだことを皮切りとして、縁戚関係を深めていった一族であった。
信武から数えて9代目にあたる信虎が、娘(信玄の姉、南松院)を穴山信友(あなやまのぶとも)に嫁がせ、さらに生まれた子信君に正妻として嫁がせたのも、信玄の次女(見性院)であった。信玄から見れば、姉と娘が穴山氏に嫁いだことになるわけで、両氏は強い絆で結ばれていたはずであった。

穴山信君を描いた「武田家廿四将」の穴山伊豆守信良。「甲越勇将伝」/東京都立中央図書館特別文庫室蔵
それにもかかわらず、信玄亡き後の織田信長による甲州征伐に際して、信君は、家康の誘いに乗って信長に内応している。
1582年3月1日(2月下旬とも)のことであった。この動きを察した武田勝頼(たけだかつより) が、織田軍勢を遊撃するために出陣していた諏訪の地から新府城へ戻ったが、その途上、武田勢から兵が次々と逃亡。8000人もいたという勝頼軍が、1000人にまで激減してしまった。
これが決定打となって、新府城へ戻ったものの、もはやなす術もなしと、3月3日には新府城を放棄。11日には早くも、天目山(てんもくざん)において自害してしまったのである。寝返った側の信君は、その後甲斐河内領と駿河江尻領を安堵されている。
ただし、信長が本能寺の変で死去(6月2日)した後、家康とともに畿内を抜け出そうとしたものの、宇治田原において、雑人に襲撃されて殺された。6月21日のことであった。