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「卑弥呼」について「死」は中国の歴史書はどのように記したのか?─『魏志』倭人伝をどう読むか─

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国 #03

 

■『魏志』倭人伝に書かれた卑弥呼の死の解釈

 

金印(レプリカ)漢委奴国王印

 

『魏志』倭人伝には、卑弥呼は景初2年(景初3年〈239〉の誤りとする説が有力)に難升米(なしめ)を遣し、魏の皇帝から「親魏倭王」と記された金印や、錦・白絹・金・真珠などの宝物と銅鏡百枚を賜った。魏からはその翌年の正始元年(240)、使者が倭国に送られている。

 

 その後、倭国は正始4年にも使者を送っており、魏からは正始6年と同8年に使者が送られてきた。

 

 この時、倭は狗奴国(くなこく)と交戦状態にあり、魏の使者は皇帝から送られた卑弥呼への檄文を携えていた。そうしたなかで卑弥呼は亡くなったのである。『魏志』倭人伝にはその年代を明記しないが、「北史」には、

 

  正始中、卑弥呼死す。

 

 とある。「正始」という元号は10年4月(249年)まで続いたので、遅くともそれまでに亡くなったことになる。『魏志』倭人伝は、卑弥呼の死を

 

  卑弥呼以死。大作塚径百余歩。殉葬者奴婢百余人。

 

 と伝える。

 

 内藤湖南(ないとうこなん)はこれを

 

  卑弥呼以(すで)に死し…、

 

 と読んだ。

 

 この読みでは、魏の使者が倭を訪れた正始8年には、「すでに」卑弥呼は亡くなっており、その「塚」(墳墓)の造営が始まっていたことになる。

 

 岩波文庫の『魏志倭人伝』(石原道博 編訳)ではこれを、

 

  卑弥呼以って死す。大いに塚を作る。径百余歩。殉葬する者奴婢百余人。

 

 と読ませている。「以って」と読むと、前段に述べられていることが原因となって、といった含意にもとれる。卑弥呼の死に何か人為的な原因があったかのようにもとれるだろう。「以」一字の読みで重要な相違が生まれることになる。しかしここは、

 

  卑弥呼死するを以って、大いに塚を作る。径百余歩。殉葬する者奴婢百余人。

 

 と読むのが自然だと考える。卑弥呼の死を待って、その塚の造営が始まったということだろう。このように読むと、卑弥呼の死に何か人為的な原因を考える必要もなくなる。

 

監修・文/水谷千秋

歴史人2025年10月号『新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル』より

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