豊臣秀次の側室となる直前に処刑された悲劇の姫 最上義光の娘・駒姫の残酷すぎる最期
日本史あやしい話
豊臣秀吉の甥・秀次に見初められて、京の京へとたどり着いた最上義光の娘・駒姫。そこで耳にしたのが、夫となるべき秀次が謀反の罪に問われて自害させられてしまったという知らせであった。そればかりか、これから側室となろうとしていた駒姫までもが、連座して殺されてしまうのだとか。「私がいったい何をしたというのか?」と悲嘆に暮れるも、とうとう、刑場の露と消えてしまったのである。
■豊臣秀次に見初められたのが不幸の始まり
「うつつとも 夢とも知らぬ 世の中に すまでぞ帰る 白河の水」
出羽国の戦国大名・最上義光の娘・駒姫の辞世の句である。側室となるため、京にまで出向いてきたのに、今まさに処刑されようとしているこの悲運。「夢なら覚めて故郷へ帰りたい」と、無垢で罪もない我が身に降りかかった災難を歌に託して死んでいったのである。
時は1595年のこと。権力者・豊臣秀吉の甥(秀吉の姉の子)で、秀吉から関白の座を譲られた秀次に見初められたのは、その数年前のことであった。輿入れの準備も入念に整えて山形から京の都へ。願いに応じてはるばるやってきたというのに、夫はいつまでたっても、出迎えに来ない。「いったい、私のことをどう思っているのかしら?」と、聚楽第にあった最上家の屋敷で待ち続けていたのである。
しかし、そこで告げられたのが、秀次が謀反の罪に問われて失脚したとの衝撃的な知らせであった。さらに、高野山へと追放されたとも。数日後の7月15日には、とうとう秀次が高野山で切腹したとの知らせまで耳に入ってきたのである。驚くべきは、それだけではなかった。秀次の正室や側室、子に到るまで、眷属全てが同罪とみなされて死罪に処せられるとまで知らされたから慌てふためいたことは言うまでもない。都にたどり着いたばかりで、夫となるべき秀次とはまだ対面すらしていない。まだ側室でもないはずなのに、「そんな私まで殺されてしまうのかしら?」との不安な思いを胸に抱き続けながら、なすすべもなく身を震わせ続けていたのである。
■助命を知らせる急使の到着直前に刑執行
夫になるはずだった秀次にも目を向けておこう。ほんの少し前までは、子なき秀吉にとって、秀次は希望の星だったはずである。それなのに、ねねこと淀殿に子・秀頼が生まれるや、手のひらを返すようにして、秀次を追い出そうとした。ありもしない罪をかぶせて、殺してしまおうとの魂胆である。卑怯この上ない所業という他ない。こんな御仁を英傑などと持ち上げて欲しくないと思うのは、筆者だけではあるまい。
それはともあれ、前述の駒姫の願いは叶わなかった。結局、他の側室たち同様、罪を逃れることができなかったのだ。この時、駒姫14歳(享年15)。夫と結ばれることもなく、儚くも世を去らざるを得ない我が運命をどれほど呪ったことだろうか。もちろん、身勝手な権力者・秀吉の横暴さにも、身もだえするほどの憎しみを覚えたはずである。
刑の執行は、三条河原に設けられた竹垣の中であった。すでに、高野山で自害した秀次の首も、これ見よがしに置かれていた。他の側室たちと共に牛車から降ろされるや、すぐに刑が執行された。最初は、秀次の正室・一の台であった。一説によると、秀吉が妻にと望んだものの、彼女の方が拒否。それが秀次との不和の一因だったとみなされることもあるようだが、果たして?ともあれ、秀吉にとっては恨み骨髄で、真っ先に処刑されてしまったのだ。その方法は、胸を槍で突き刺された後、首を刎ねられるという残酷な刑であった。続いて妻の前、さらにお亀の前等々、次々と首を刎ねられていった。駒姫の刑の執行は、11番目。幼児をも含めて、総勢39人(34人とも)もの罪なき女子供たちが惨殺されていったのである。
ちなみに、駒姫が刺し殺されようとしていたその刹那、実はそこから一町(約百m)しか離れていないところまで、早馬に乗った急使がやってきていた。事の仔細を耳にした淀姫が、駒姫の刑の執行を停止するよう秀吉に進言。それを受けて急使が駆けつけてきたのである。しかし、時すでに遅し。急使がたどり着いた時には、刑が執行された後であった。
遺骸は、一つの大きな穴に皆と共に無造作に放り込まれ、土をかぶせた後、「悪逆塚」と記された碑が立てられたという。何とも酷いとしか言いようのない仕打ちであった。
それから2週間後の8月16日、駒姫の母・大崎夫人までもが亡くなっている。おそらくは、娘の死に堪えきれず、自ら命を絶ってしまったのだろう。
何もかもが不運であった。11歳の時に秀次に見初められた時は、15歳になるまで待ってもらったはず。それをもう少し、ほんの数か月でも遅らせることができていたら、駒姫は死を免れたはず。三条河原で急使がもう少し早くたどり着いていれば、刑の執行を止められたはず。さらには、執行が11番目ではなく12番目であったなら…等々、こうであったら良かったのに…と思うようなことの連続であった。それら全てが、時の悪戯というべきなのだろうか。
私がいったい何をしたというのか?どんな罪にあたるというのか?只々、秀吉の身勝手さが引き起こした蛮行ではないか。それにもかかわらず、ありもしない罪を被せられてむざむざと殺されなければならないとは…。単に不幸のひと言では言い表せない、無念な出来事であった。
後日談ではあるが、駒姫を殺された父・義光は、その後豊臣家を見限り、関ヶ原の戦いでは東軍の家康に与して見事勝利に貢献している。義光にとっては、娘・駒姫の仇を討った一戦だったと言えるのかもしれない。

『奇術十二支之内 7』/国立国会図書館蔵