禁断の恋に溺れた同母兄妹・木梨軽皇子と軽大娘皇女の悲劇 『古事記』と『日本書紀』で異なる物語
日本史あやしい話
日本の古代において、異母の兄と妹が結ばれることは珍しいことではなかった。それでも、同母となれば話は別。非難されても仕方がない禁断の恋であった。それがわかっていながらも、心惹かれ合う2人。允恭天皇の第一子・木梨軽皇子と、その同母妹・軽大娘皇女であった。いったい、どのような結末を迎えたのか、『記紀』および伝承を踏まえて見てみることにしよう。
■伊予の国に流された兄を追って妹も…
「我が問ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今宵こそは 安く肌触れ〜」
何とも妖艶な歌である。「我が愛しい妹よ、我が妻よ、今宵こそは心安らかに肌触れ合うことができる〜」というのだから捨て置けない。早い話が、兄と妹の禁断の恋。妹を想う兄の切々たる心の内を大胆にも歌い切るのである。
兄とは、19代允恭天皇の第一子・木梨軽皇子。妹とは、皇子の同母妹・軽大娘皇女である。美しさが衣を通して匂うがごとく輝いていたところから、衣通姫と称えられた絶世の美女であった。その妹を恋い焦がれる兄の想いは鮮烈で、ついに志を遂げ、相通じてしまうのであった。
ちなみに、日本の古代において、異母兄弟姉妹間の婚姻関係は決して少なくない。そもそも聖徳太子こと厩戸皇子が、用明天皇とその異母妹の穴穂部間人皇女の間に生まれた人物であったし、推古天皇も異母兄の敏逹天皇と結ばれている。
それでも、いずれも異母である。さすがに同母とあっては、非難されるのは、今も昔も変わらないのだ。それは皇室内においても同様で、皇子皇女といえども、罪に問われることは必至。それがわかっていながらも、木梨軽と軽大娘の二人は熱き想いを抑えることができなかったのだ。
兄は思いを遂げた後、「愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば」とまで歌い上げている。思い余って一緒に寝た上は、もはやどうにでもなれ…といわんばかりの開き直りであった。
しかし、当然のことながら、2人を待ち受けるのは非難の声と厳しい試練でしかなかった。皇子が実の妹と通じたことが世に知れ渡るや、宮中ばかりか、人民までもがこぞって非難。不安になった皇子は、大前小前宿禰大臣の邸宅に逃げ込んで襲撃に備えるのであった。
しかし、政敵でもあった弟の穴穂皇子(安康天皇)が黙っているわけもなく、軍を率いて屋敷を取り囲み、とうとう捕まえてしまった。流罪となって送り込まれたのが、伊予国(愛媛県)である。それでも、皇子はすぐに妹と再会できるとでも思ったのだろうか。妹に対して、「大君を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ」と、私がいつも座っている畳を清めて、私の帰りをもう少し待っていておくれと、優しく声をかけるのであった。これに対して妹は、「夏草の 阿比泥の浜の 蠣貝に 足踏ますな 明かして通れ」と詠む。蠣の貝殻を踏んでお怪我をなさらぬようにと兄を気使う。
それでも、兄のことを愛おしく想う妹の心ははち切れんばかりで、ついには我慢しきれず、兄を追いかけて密かに伊予の国へと向かうのであった。2人は伊予の国で再会。喜びもつかの間、追っ手が迫ってきたため、ともに命を絶ってしまうのである。
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