禁断の恋に溺れた同母兄妹・木梨軽皇子と軽大娘皇女の悲劇 『古事記』と『日本書紀』で異なる物語
日本史あやしい話
■姫原の地に伝わる2人の再会物語
以上が『古事記』に記された2人のその後の動向であったが、『日本書紀』の記述は、これと異なる。伊予に流されたのは兄ではなく妹の方で、太子の座を同母弟(穴穂皇子)に奪われることを恐れた兄が弟を襲撃したものの、逆に弟に攻められて自害せざるを得なくなったという。
『記紀』いずれの話が本当なのかは定かではないが、伊予の地において2人が隠れ住んだとの伝承が残されているところから鑑みれば、『古事記』の記述が真実に近いのかも。何はともあれ、その伝説の舞台へと足を運んで、あらためてその真偽のほどに迫ってみることにしたい。
それが、愛媛県松山市郊外にある姫原の地である。姫とは、いうまでもなく妹の軽大娘皇女のことで、2人が自害したと言い伝えられるところに、小さな塚が2つ、ポツンと置かれているのが印象的だ。名前は比翼塚。愛し合ったものの、不運な死を迎えた男女を儚んだ村人たちによって築かれたようである。
塚の近くに軽之神社という名の小さな社があるが、その名にある「軽」が軽大娘皇女の名に由来することは言うまでもないだろう。地元に伝わるお話としては、ここが、かつて姫原社とも呼ばれた2人の隠れ家だったとか。背後に広がる姫池も、妹ゆかりの地である。
もちろん、2人が本当にこの地で暮らしたのかどうかは明確ではない。それでも、仮にそれが本当だとすれば、2人は同地において忌み嫌われることもなく、受け入れられていたと考えられそう。それだけは、せめてもの心の慰めというべきか。
ただし、気になるのが、ここから東へ約80㎞も離れた四国中央市にある東宮山古墳における、もう1つの伝承である。ここでは、皇子が伊予で亡くなったものの、妹とはついに巡り会うことができなかったと言い伝えられているのだ。もちろん、そこに葬られているのは皇子のみ。寂しい限りである。いかに禁断の恋とはいえ、愛し合った2人。同地での再会が叶わなかったとしても、せめて死後だけは共に葬ってやりたかった…と願うのだが。それさえ、いけないことなのだろうか?

2人が暮らしたところと言い伝えられる軽之神社
撮影:藤井勝彦
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