妖艶な美貌で次々に男をたぶらかした女 「日本一の毒婦」と噂された「妲己のお百」とは?
日本史あやしい話
傾国の美女としてその名を知られた殷の紂王の妃・妲己。その名を冠した妲己のお百という女性をご存知だろうか?江戸時代に生きた実在の女性である。史実としても相当淫婦であったことは間違いないが、とある書に記された毒婦ぶりが、何とも凄まじいものであった。男どもをたぶらかして殺害したばかりか、脱獄、島抜けなど朝飯前。挙句、とある藩の乗っ取りにまで手を染めるなど、悪事の限りを尽くしたというのだ。いったいどんな毒婦ぶりだったのか、見てみることにしよう。
■日本一の「毒婦」は誰か?
今回は、悪どい「毒婦」のお話である。悪女の中でも特に腹黒く、悪事を働いて世を震撼させた女性というべきか。時に奸婦と言われることもあるから、謀を企むだけのズル賢さを併せ持つ御仁でもある。
では、世にひしめく毒婦の中で、日本一極悪だったのは誰か?となると、放火や窃盗などを繰り返して、都合10回も牢獄に放り込まれたという蝮のお政や、男をたぶらかして恐喝に及んだ全身刺青だらけの雷お新などの名を挙げることもできるが、筆者が筆頭にあげたいのは、明治時代に著された『今古実録増補秋田路』に記された妲己のお百である。妲己とは殷の紂王の妃で、夫をたぶらかせて国を滅させたことで知られる女性。その名を冠するほどだから、相当な毒婦と言うべきだろう。
ちなみに実名・お百の名は、以前紹介した曲亭馬琴の妻の名と同じ。しかし、二人の悪女の度合いは、大きく異なる。馬琴の妻・お百はせいぜい夫と嫁を悩ませ続けた程度であったが、妲己のお百は男をたぶらかして殺しに走ったばかりか、捕まっても脱獄、島抜けを難なくやってのけたという確固たる悪人であった。殺した男が化けて出てきても平然としていたというから開いた口が塞がらない。
もちろん、何人もの男どもをたらし込んだ訳だから、美貌のほどはバツグン。度胸も愛嬌もあり、キレッキレの頭脳の持ち主だったことも間違いない。それゆえに男どもを次々と虜にすることができたのだろう。何はともあれ、どのような毒婦ぶりだったのか、あらためて振り返って見ることにしたい。
■男の殺害ばかりか、脱獄、島抜けなど何でもござれ
この『今古実録増補秋田路』の中では、お百は木津川の漁師・新助の妹として登場する。廻船問屋・桑名屋徳兵衛方に奉公に出たというが、根っからの悪女だった訳ではなく、怪物・海坊主の怨念がお百の体内に取り憑いたことで、悪女として変貌を遂げたことになっている。
ここであらためて言及しておきたいが、実のところ、ここに記載された女性像のいったいどのあたりまでが史実だったのかは明確ではない。むしろ、かなり脚色がなされたフィクション性の高い物語だと考えた方が良さそうだ。ともあれ、続きを見ていこう。
奉公先の主人をたらし込んだお百。本妻の追い出しまで目論んだようである。ちなみにこの女、男をたぶらかすだけでなく、男を破滅に導くことにも快感を覚えたようで、徳兵衛を遊興の世界に引きずり込んで破滅させたというから、何とも悪どい。その後、自身は江戸に逃げたものの、徳兵衛に追いかけられて困った。と、今度はあろうことか、徳兵衛をあっさり殺してしまった。毒婦たる所以である。当然のことながらお縄となった。普通なら、これで人生おしまいのはず。ところが、そこが毒婦の中の毒婦と言われるお百の真骨頂というべきか。江戸伝馬町の牢獄に入れられたものの、見事脱獄に成功したから凄い。さらには、目明しまで殺害したとか。ここで再び捕まって佐渡に流されるも、今度は島守の男をたぶらかして島抜け。何とも悪運が強いというか。
その後、佐竹藩の家老をたらしこんで妾となったとも。ここでもまた謀をめぐらしてお家乗っ取りを画策する始末。しかし、彼女の悪運もここまでであった。再びお縄となって、処刑されてしまったからである。
その後日談も面白い。殺された徳兵衛が人魂となって暗闇に漂ったことがあったが、それを目の当たりにして言い放った言葉が堂に入っている。人魂を平然と見つめながら、「お前は何とも親切者よな。提灯がわりに照らしておくれか」と言い放ったとか。人魂を見ても平然。暗闇を照らす灯りとして利用したというから、度胸の良さもピカ一であった。
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