風俗取締で流刑になった「金沢の遊女」の悲劇 流刑先で妊娠し、川に身を投げた不遇の生涯
日本史あやしい話
貧しさゆえに遊女とさせられてしまった挙句、罪を問われて五箇山へ流罪。そこで知り合ったとある男との間に子まで生まれてしまった。それはもちろん、流罪人として許されることではなかった。彼女はとうとう、庄川へと身を投げてしまうのであった。この悲運の女性の生涯を、詳しく見つめ直してみたい。
■遊郭に売られ、風俗取締で罪を問われて流刑に
「峠細道 涙で越えて 今は小原で 侘び住い〜
心細いよ 籠乗り渡り 五箇の淋しさ 身にしみる〜」
「民謡の宝庫」といわれる五箇山、そこに古くから伝わる「お小夜節」なる民謡の一節である。淋しい五箇へと流れ着いたというのは、江戸時代半ば頃に当地へと流されてきた遊女・お小夜のことである。
続けて、
「庄の流れに 月夜の河鹿 二人逢う瀬の 女郎が池〜
輪島出てから ことしで四年 もとの輪島へ 帰りたい〜」
とも。
「もとの輪島へ帰りたい」というから、彼女が輪島出身であったことを物語っている。何はともあれ、話を振り出しへと戻してみることにしよう。
■流刑人でありながら子をなしたお小夜の悲運
お小夜とは、能登の門前町・輪島の百姓の娘であった。貧農であったがゆえ、13歳で奉公に出されて年季が明けるや、すぐさま18歳で金沢の遊郭へと売られたようである。
ただし、当時は遊郭なるものを公に営業することが禁じられていたので、数人の藩士らが商人とつるんで、密かに出会茶屋を営んでいた。しかし、藩による風俗取締にあって、藩士らはもとより、遊女たちまで流刑に処せられてしまった。
その多くが輪島へと流されたものの、お小夜の出身地が輪島であったことから、彼女だけが五箇へと流されたのだ。当時の五箇山といえば、1000メートル級の山々と深い渓谷に囲まれた陸の孤島であったため、加賀藩の流刑地とされていたところである。
ただし、彼女のそこでの暮らしぶりは、それほど過酷なものではなかった。後には重犯罪者は御縮小屋と呼ばれる小屋に厳重に隔離されるようになったが、この頃はまだ平小屋に寝泊まりするだけで、出入りは比較的自由であった。
そのため、集落内を歩くこともできたわけで、お小夜はその境遇を生かして、身につけていた三味線や歌、踊りなどを村人たちに教えるなど、村人たちとも仲良く暮らしていたようだ。
そんな折に出会ったのが、村の青年・吉間(きちま)であった。この男性がどのような人物であったのか詳細はわからないが、いつしか子までもうけたようである。
しかし、お小夜はあくまでも流刑人である。そんな身の上でありながら、子をなしたとなれば、二人ばかりか、村人にまで、どのような災が降りかかるかわかったものではなかった。ついにはそれを案じて、近くを流れる庄川へと身を投げてしまったのだ。
その後、村人たちが彼女を憐れんで祀ったのが、お小夜塚である。小さな塚の隣に祠が設けられ、今も花が供えられて、悲運の女性を慰めているかのよう。簡素ながらも大切に見守られているその風情に、心打たれてしまう。

イメージ/イラストAC
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