藤原氏が『日本書紀』を“改ざん”していた!? 持統天皇をアマテラスに見立て、蘇我氏を悪者にしたという疑惑
日本史あやしい話
藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等。能力もさることながら、持統天皇に引き立てられたことが、躍進の原動力だったことは間違いない。それというのも、実はこの2人、異母姉弟だった可能性があるからだ。加えて、彼にまつわる疑惑がもう1つ。『日本書紀』の改ざん疑惑である。本当のところは、どのようなものだったのだろうか?
■不遇の時代を実力で乗り越えて右大臣まで昇進
藤原不比等といえば、天智天皇の腹心として活躍した中臣鎌足の次男である。父・鎌足が臨終にあたって、官位の最上級である大織冠(たいしょっかん)とともに藤原姓を賜ったところから、藤原氏の始祖として讃えられたこともよく知られるところだろう。
その息子となれば、栄達も意のままと思われそうだが、実のところ、彼自身は不遇を受けていた。壬申の乱において、親族の1人・中臣金(なかとみのかね)が大友皇子側に与していたことで、中臣氏(藤原氏)が一時、要職を外されてしまったからである。

藤原鎌足が朝服を着け半跏して坐る姿を中央にひときわ大きく配し、向かって右下に僧形の定慧、左下に朝服を着ける藤原不比等という二人の子息が従っている。
奈良国立博物館蔵/ColBase
そのため、不比等自身も出仕に際し、下級官僚からのスタートを余儀なくされていたのだ。それにもかかわらず、着々と出世を重ね、ついには右大臣にまで上り詰めたというから、能力のほどがうかがえそう。
そればかりか、娘・宮子を文武天皇の皇后にした上、2人の間に生まれた首皇子(おびとのみこ)が聖武天皇として即位。その聖武天皇に、県犬養三千代との間に生まれた娘・光明子を嫁がせているから、外戚としての地位は、これ以上ないと思えるほど盤石なものになっている。光明子自身も、聖武天皇の皇后であるとともに、孝謙(称徳)天皇の母となるわけだから、その繁栄ぶりは凄まじい。
当然のことながら、その後の藤原氏の活躍ぶりも目覚ましく、後の五摂家の動向をも踏まえれば、これ以上に権力を有した氏族は、他にいないといえるだろう。
もちろん、彼が出世できたのは、法律や文章術などに優れていたからというのも間違いないが、持統天皇に引き立てられたことを見逃すわけにはいかない。不比等は持統天皇の息子である草壁皇子に仕えていたことを契機として、天皇に取り入った。
しかし、期待の草壁皇子(くさかべのみこ)が病死するや、今度はその子である軽皇子(かるのみこ)を文武天皇として即位させることにも尽力して、信頼を勝ち取ったのだ。孫の擁立に功績のあった不比等が優遇されたのも、当然のことだろう。
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