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夫との不貞を疑って嫁にモラハラの限りを尽くした女 曲亭馬琴の妻・お百の「悪妻」ぶりとは?

日本史あやしい話


結婚当初は貞淑を装いながら4人の子を生んだ曲亭馬琴の妻・お百。しかし、息子・宗伯が死んでからは貞淑の鎧をかなぐり捨てて本領発揮。夫・馬琴と宗伯の嫁との仲まで勘ぐって馬琴を罵倒する始末。嫁を追い出すことが叶わぬと知るや、プイッと家を飛び出してしまうのであった。いったい、どんな悪妻ぶりだったのだろうか。


 

■晩年の曲亭馬琴を悩ませた妻・お百

 

 今回は、「悪妻」について語りたい。ただし、妾の館を打ち壊した北条政子(源頼朝の妻)や応仁の乱の混乱に乗じて私服を肥やしたと言われる日野富子(足利義政の妻)のように、後世にまでその名を轟かせたような女性とは異なる。むしろ、どこにでも居そうな女性である。今こうしてこの記事を読んでおられる読者の中にも、そんな女性が身近に居ることに気がついて、我が事のように思っていただけるのかもしれない。

 

 ともあれ、その女性に注目してみよう。名は、お百。「誰?」と思われそうだが、夫の名を聞けば「ああ、あの人ね」と、おわかりいただけるはずだ。夫の名は、曲亭馬琴。そう、江戸時代後期の戯作者として一斉を風靡した、あの著述家である。源頼朝の叔父・為朝が大暴れする様子を描いた『椿説弓張月』や、仁義礼智忠孝悌の文字のある玉を持つ八犬士が因縁に導かれて里見家の元に結集する様を描いた『南総里見八犬伝』が大ヒット。日本のシェークスピアとまで讃えられたこともある偉大な御仁というべきだろうか。そんな偉人の晩年に彼を悩まし続けたのが、妻・お百であった。何はともあれ、いったいどんな女性だったのかから見ていくことにしたい。

 

■馬琴が妻・お百の実家に婿入り

 

 ただし、馬琴と結婚するまでのこの女性に関する記録は実に少ない。それでも、明和元(1764)年生まれで、2歳の頃養女に出されたことだけは確かなようである。それが、履物・商伊勢屋を営む会田氏であったところから、会田百と呼ばれることも。3歳年下の馬琴と結婚したのは、お百30歳の頃で、記録には寡婦とあるものの、最初の夫が誰であったのかは定かではない。

 

 ちなみに、馬琴は婿入りしたものの、商売に身が入らず文筆業に打ち込み、ほどなく履物商をやめていることも付け加えておこう。結婚翌年に長女が生まれたのを皮切りとして、1男3女を生んだところから鑑みれば、当初この二人の夫婦仲は、それなりに良かったとみなすべきだろうか。体裁を重んじ、夫に対しては一応貞淑な風を装っていたから、馬琴としても、文句のつけようはなかったのだろう。むしろ、結婚当初から家庭を顧みず、創作活動等に明け暮れていた馬琴の方にこそ問題があったというべきか。

 

■「貞淑」とは名ばかりの二面性

 

 その状況が変わり始めたのが、馬琴晩年の頃であった。実はこの女性、貞淑とは見せかけで、とんでもない二面性を合わせ持つ女性であった。夫には貞淑を装いながらも、息子の嫁や下働きの者に対する風当たりは厳しく、ことあるごとに癇癪を起こして怒鳴りちらすという癇性気質の持ち主だったのだ。気に入らぬことがあるとすぐヒステリーを起こして当たり散らすわけだから、周囲の人たちにとっては迷惑この上ない。特にその兆候が顕著になり始めたのが、息子・宗伯が病にかかって、癒えることなく死んでしまった頃からであった。

 

 この辺りで一度、晩年の馬琴を振り返ってみることにしよう。天保4(1833)年、67歳の頃に右目に異常を感じ始めたのを皮切りとして、やがて左目も霞むようになったことはご存知の通り。天保101839)年には、とうとう失明してしまった。この頃はまだ『南総里見八犬伝』も完結していなかったから、息子・宗伯の妻・お路が口述筆記することで完結したこともまた、よく知られるところである。

 

 ところが、あろうことか、お百はこの馬琴と嫁の二人にあらぬ疑いを抱き、嫉妬に駆られた。いよいよ、彼女の悪妻としての本領発揮である。貞淑という鎧をかなぐり捨て、ついに本性を発揮。夫・馬琴を罵倒し始めたから、馬琴も驚いたに違いない。馬琴と嫁がただならぬ仲であると邪推して嫉妬に狂い始めた上、勝気な嫁の言い草が息子・宗伯の死を早めたとまで言い切る始末。挙句、馬琴に向かって嫁を追い出すように迫るのであった。身に覚えのない馬琴は、お百の言い分を認めるはずもなく頑なに拒否。と、お百は、こんな家には居られぬとばかりに飛び出してしまうのである。息子の一周忌にさえ姿を見せなかったというから、頑固さもまた格別であった。

 

 ちなみに広辞苑を引くと、悪妻とは「夫のために良くない妻」とある。また一説によれば、「夫が結婚したことを後悔するような品行の妻」と言われることも。そこから鑑みれば、馬琴晩年の妻・お百は、まさに「悪妻」と言っても過言ではないだろう。「悪妻は六十年の不作」あるいは「百年の不作」とまで言われることもある(悪夫の場合は「百年の飢餓」というらしい)が、お百の場合もそれに該当するのだろうか。

 

 ともあれ、前述の権力欲の強い北条政子や日野富子とまではいかなくとも、ヒステリックで、且つ極度に嫉妬深い女性も悪妻になる可能性大である。これにお百のような二面性が加われば、悪妻の道へまっしぐら。いかに貞淑を装おうが、いつかは本性を現すこと必死。そんな女性とは出会わぬようにと、願うばかりである。

イメージ/イラストAC

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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