聖徳太子が「斑鳩」に拠点を移した理由とは? 上宮王家滅亡を招いた運命の地
飛鳥時代の初め、推古天皇の摂政として政権のトップにあった厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳太子)は、なぜ首都から離れた斑鳩(いかるが)に拠点を移したのだろうか?
■聖徳太子の功績
日本史上の人物でもっとも知られている聖徳太子は、生存中には厩戸皇子などと呼ばれていました。聡明な皇子は叔母にあたる推古天皇に指名されて天皇代理ともいえる摂政に就任したそうです。大臣(おおおみ)は大豪族を率いる蘇我馬子で推古天皇の叔父ですので、この飛鳥政権の始まりは蘇我一族の政権だったといえるでしょう。
この政権は冠位十二階という統制された官吏制度や服務規程ともいえる十七条憲法の制定などを整え、
『国記・天皇記』という書承化した今は幻の歴史書も作成し国際政治の土俵に堂々と登場しようとしました。つまりこの政権は、大和国家を国際社会に先進国と対等の立場でデビューしようとしたわけです。
聖徳太子は聖人として現代も仏教界の信仰を集めています。確かに仏教導入を推進し、その教えを広めると同時に最新文化を取り入れる基礎を築いた功績は大きく、現代も尊崇される聖人です。しかし人物として聖徳太子を眺めてみると、実に有能な政治家だったともいえるのです。
実は政権発足前から国際化の準備は進められていて、物部守屋を倒して政権を蘇我氏が一手に握った丁未の乱(ていびのらん)の戦勝記念のような四天王寺建立もその一貫だったと考えられます。

四天王寺伽藍。何度も焼亡したが、毎回再建され、聖徳太子建立の時から伽藍配置は全く変わっていない南北一直線の伽藍が並ぶ。
撮影:柏木宏之
なぜ現在の大阪湾に面した上町台地に四天王寺が建立されたのでしょう。四天王寺は南北一直線に伽藍(がらん)が配置される古式代表の大寺院ですが、標高が30m前後ある台地上に甍が輝く南大門・中門・五重塔・金堂・回廊・講堂が建てられ、その寺域を頑丈な壁がぐるりと囲んでいます。この場所を立地として選んだのは、世界の中心であった隋や唐から使節を迎える準備でもあったとしか考えられません。国際港の難波津に国賓として使節団が入港する時、その眼前に仏教哲学を理解していることを示す四天王寺がドッシリと現れるのです。外国使節団は上陸の時に大和国家の先進性を見せつけられ、大和はけして野蛮な未開国ではないことを思い知らされるのです。これが四天王寺をこの場所に建立した最大の目的の一つだったとしか思えません。
このように国際社会の文化レベルに達するために初期の蘇我飛鳥政権は全力を傾けています。そして聖徳太子は政権トップの立場でありながら、直線距離でも20km以上離れた斑鳩に遷ります。これにはさまざまな説や考えが提出されていますが、際立って有能な政治家でもある聖徳太子が、大和川の右岸に宮を遷し、法隆寺をはじめとする寺院を次々に建立するには重大な理由がありました。
それは斑鳩が戦略的立地だと重要視したからに他なりません。国際港の難波津から河内湾の水路に川船で入り、亀の瀬を超えて大和川を遡上すると、斑鳩を少し超えたところの現在の安堵町付近で飛鳥川が合流します。そこで飛鳥川を遡上すると当時の首都である飛鳥に直結するのです。

河内湾と直結し飛鳥川に分岐する水路を抑える斑鳩は最重要戦略拠点となるのがわかる
ここを敵対勢力に制圧されると飛鳥は干上がるだろう。
※GoogleEarthより一部編集。
現在の私たちが物流を想う時に真っ先に思い浮かぶのはトラック輸送でしょう。しかし、当時の主要な物流ルートは何といっても水路です。世界に進出しようとする推古政権にとって、この水路は最重要物流ルートであり、同時に軍事的戦略ルートでもあるわけです。
その重要戦略拠点を蘇我の皇子であり政権の中心人物でもある聖徳太子が、一族を率いて抑えたという事なのです。この拠点を反政府勢力に占領されたら、政権が目指す国際デビューはおろか、大陸や半島との連絡路を絶たれることになり、飛鳥は干上がってしまうでしょう。目的達成のための準備を着々と進めている聖徳太子が、いかに優れた政治家であったかということがわかるような気がします。
実は『隋書』には西暦600年に倭国の使節がやって来たことが記されています。これこそが第1回の遣隋使でした。しかし国家としての組織性や文化度が世界レベルに達していないことを隋に気づかれて、この時は国交樹立に失敗しています。
そこで全力で国家の体を整えたのが603年制定の冠位十二階であり、仏教哲学が根底にある十七条憲法の604年制定、さらには飛鳥寺の完成と飛鳥大仏の造立、法隆寺の建立だったのではないでしょうか。聖徳太子は隋に見下されて失敗をした第1回遣隋使のリベンジを果たすべく、全力で国家体制を整えたのだと思えます。そして満を持して西暦607年に犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を正使とした遣隋使を出発させたのでしょう。高句麗に手を焼いている隋の状況も知っていた聖徳太子は、「日出処の天子 書を日没する処の天子に致す」と驚くほど対等であることを強調した書簡を送ったのだと思われます。
もちろん聖徳太子一人でこのような国家レベルの政策が実施できるわけがなく、蘇我氏を中心にした大和王権全体での取り組みだったはずです。
そして聖徳太子の極めて有能なところは、この斑鳩を軍事拠点としての重要性だけでなく、文物の行き交う拠点でもあることを認識して、寺院を建立したことでしょう。それは現在の大学を建設したのと同じことで、最新の文化を習得する若者育成の拠点としたことです。男子大学と女子大学を造り、建学者としての大きな功績を聖徳太子は残したのだと思います。
ただ私は聖徳太子の跡取りである山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)がこの重要拠点に住み続けたことに、上宮王家滅亡を招いた可能性も感じます。皆さんはどうお考えになりますか?