「出雲の国譲り」は大和王権と出雲王権の合戦だった? なぜ出雲族は諏訪地域を目指したのか
「空白の4世紀」と弥生王国の謎
「出雲の国譲り」という神話は大和王権の歴史の中でもしっかりと書き記されている話で、高天原(たかまのはら)の天照大神(あまてらすおおみかみ)が欲した地上の国を大国主命(おおくにぬしのみこと)から譲らせるという話ですが、なんだか矮小な印象になっているように感じます…。
■「国譲り」というよりは「国盗り」だった争い
家督財産を譲るとか王位を譲るという話は世界中の歴史にいくつもありますので違和感がありませんが、国を譲るというのはあまり聞かない話です。
しかしわが国の歴史書や神話には国津神(くにつかみ)の大国主命一族が、天津神(あまつかみ)の高天原一族に国そのものを譲ったという話があります。「譲った」といいますが、実際には奪われたといった方が正しいのでしょう。話し合いで解決するような話ではなく、長い年月をかけた高天原の外交戦略では埒が明かず、ついに軍団を派遣するという、実にリアルなストーリーです。
現在の島根県東部の出雲大社のすぐそばにある稲佐の浜(いなさのはま)で始まったとされる戦闘は、日本列島を北上して長野県の諏訪地域まで広がったと語られています。闘ったのは、鹿島神宮や春日大社の祭神である高天原の大将軍・建御雷神(たけみかづちのかみ)軍と、出雲王大国主命の息子でこちらも大将軍だった建御名方神(たけみなかたのかみ)軍で、出雲軍団が敗北して国を奪われた話です。最初は互角に見えた戦いも、すぐに高天原軍が優勢になり、その後、敗走を続けながら戦った建御名方の出雲軍が諏訪湖で降参する、という展開です。

出雲・稲佐の砂浜風景 海の向こうは朝鮮半島だ。
撮影:柏木宏之
ここで私が昔から疑問に思っていたのは、敗走する出雲の建御名方軍がなぜ遠く諏訪地域を目指したのかという事です。
しかしながら弥生の出雲王国を研究し始めると、出雲族の勢力範囲が、東は越の国の新潟県や長野県の中央山岳地帯である諏訪地域にまで広がっていた可能性に気づきました。
敗走する出雲軍団が縁もゆかりもない地域を目指して進むわけがありませんから、逃げ込む先は自分たちにかかわりのある地域だったことを示唆しています。
ただしそれが現代の戦争のように、ある一定の限られた短い期間闘われたのかどうかは疑わしいと思います。大国主命という出雲王は何代も続いて何人もいたようですので、建御名方も何人もいたのではないでしょうか。同じく出雲王一族の事代主(ことしろぬし)も何代にもわたって継がれていたようです。高天原軍団の最高司令官だった建御雷も何人いたかわからないですね。
この古代の国盗り合戦は、高天原と出雲という地域の間で繰り広げられたわけではなく、弥生後期に創始された大和王権と、すでに王国を広げていた出雲王権との列島規模での戦いだったのです。
それは3世紀ごろの話なのでしょう。

島根県立古代出雲歴史博物館展示の絵画土器解説パネル。軍人を乗せた軍船だろうか。
撮影:柏木宏之
そして現代のわれわれは、「出雲の国譲り」ということばに大きく支配されて決定的に勘違いをしているのではないかと思うのです。
この物語は出雲地域という矮小な地域、もしくは弥生の集落的小国を取り合ったわけではなく、広大な日本列島そのものの支配権を奪い合った話です。
神話によると、高天原の天照大神は「葦原中国(あしはらのなかつくに)はわが子らが治めるべきである」といったとあります。けっして「出雲」という場所を欲したわけではありませんから、この神話のタイトルを正しく理解しようと思えば、「出雲族の国譲り」とするべきでしょう。
日本列島を示す「葦原中国」が、出雲王国だったという決定的な証言ともいえますし、国譲りと言っているのはあくまで勝った側の高天原族、すなわち大和王権側の表現です。敗者である出雲族側から見れば、征服された、もしくは屈服させられたという事になるでしょう。
しかし出雲族の人や文明が消滅したわけではなく、国津神の大物主大神が現在も三輪山に祀られ、野見宿祢(のみのすくね)という文武に優れた人材が輩出するなど、いち早く日本列島を広く緩やかに支配していた出雲王権は大和に取り入れられて存続していたとしか思えません。
島根県出雲地域や全国各地の開発が進んでいるので、遺跡の発見も相次いでいます。今後、思いもよらない地域から出雲族の痕跡が発見されることを私は期待しています。