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名門最上家の没落は忖度から始まった!? 幕府にも藩主にも忖度しない重臣たちが主家を破滅させた「最上騒動」

忖度と空気で読む日本史


下剋上が横行した戦国時代と比べて、近世の武家社会は主君や御家への忠誠が絶対視されたイメージが強い。しかし、戦国の遺風漂う江戸時代初頭においては、家臣が公然と主君を廃立する御家騒動が行われた。若き藩主が家臣に背かれ、改易に追い込まれた「最上騒動」の顛末を見てみよう。


 

■家康に忖度し嫡子を殺した最上義光

 

 最上家は室町時代に管領、奥州探題を務めた名門・斯波家の分家である。戦国時代に山形城を拠点として勢力を拡大。一時、伊達家に圧倒されたが、義光(よしあき)の時、関ヶ原の戦いで東軍に属して上杉景勝の攻勢を防ぎ、山形57万石を領する大大名となった。

 

 それだけに、義光の徳川家に対する忠誠は厚く、江戸幕府が開かれると、豊臣秀頼の近習を務めた嫡子・義康(よしやす)を殺害し、徳川家の人質として幼少期を過ごした次男・家親(いえちか)を後釜にすえた。家康への忖度から豊臣派の嫡子を退け、徳川派の次男を取り立てることで忠誠の証としたのである。これが最上家の没落の第一歩になるとは、義光も思いもよらなかったことだろう。

 

 慶長19年(1614)、義光が死去し家親が後を継ぐと、さっそく最上家に騒動がもちあがる。重臣の添川館主・一栗兵部(ひとつくりひょうぶ)が、家親の異母弟である清水義親(よしちか)の擁立を企て、家親派の重臣たちを次々と殺害したのだ。この時の家親の行動は迅速で、たちまち一栗を討伐するや、返す刀で義親を自刃させ、その嫡子・義継(よしつぐ)まで殺害して禍根を断った、つもりであった。

 

 ところが元和3年(1617)、家親は36歳で急死してしまう。毒殺されたという噂が流れたところに、最上家の不穏な空気が見て取れる。

 

 さいわい将軍・徳川秀忠は、義光・家親時代の体制を継続することを条件として、家親の嫡子で12歳の義俊(よしとし)への家督相続を許可した。この時点で、幕府と最上家との関係は良好であり、義光の忖度も無駄ではなかったことになる。

 

■改易覚悟で幕命に背いた重臣たち

 

 ところが家内の混乱は収まらなかった。元和8年(1622)、山形藩の年寄の一人で義光の甥にあたる松根光広(まつねみつひろ)が、家親の死は最上一門の楯岡光直(たておかみつなお)の所行であると幕府に訴えたのだ。結果は証拠不十分で松根の敗訴となったが、事態を重大視した幕府は山形藩に国替えを命じる。

 

 これは一見、最上家への懲罰にみえるが、実際は同家の重臣たちをそれぞれの所領から切り離すことで、藩主権力の強化をうながすねらいがあったといわれる。関ヶ原の戦いの後、伊達・上杉・佐竹などの有力大名の居城や領地が移されたのに対し、最上家はそれまでどおり、本拠の山形城を拠点とすることを許された。そのため、中世以来の家臣団と在地とのつながりが温存され、それぞれ独立性を保っていたのである。

 

 さらに秀忠は、最上家の重臣たちに対して藩主・義俊を盛り立てるよう厳命した。しかし、幕府のねらいを察したのだろう。重臣たち、特に義光の4男である山野辺義忠(やまのべよしただ)と鮭延秀剛(さけのべひでつな)の2人は国替えに強く反対し、「藩主の義俊は自分たちを憎んでいる。新領地に移ってもいろいろ問題が起こるだろう」といって幕命を拒絶した。

 

 なぜ、2人は改易の可能性があると知りながら、幕命を拒んだのだろうか。それは、彼らが今回の事件を、あくまでも最上家の問題とみていたためとされる。城主クラスの重臣である山野辺や鮭延には、主家が取りつぶされても、すぐに自身の破滅につながるわけではないという自信があった。特に義忠は関ヶ原の戦いの際、江戸に人質として出された関係で徳川家と良好な関係にあったからなおさらであったろう。実際、他藩でも御家騒動で訴えられた重臣が、のちに独立大名として取り立てられる例もあったのである。

 

 こうした打算に加えて、器量のない義俊との主従関係を続けることは、武士の一分が立たないという意地もあったのだろう。鮭延らは山野辺義忠を藩主に擁立しようとしていたともいわれる。

 

 最上家を存続させるのは困難と判断した将軍・秀忠は、元和8年(16228月、ついに最上家の改易を決定する。藩主はおろか幕府にさえ忖度しない重臣たちの強硬な態度が、出羽の名門を破滅に追い込んだのである。

 

 その後、山野辺は岡山藩主・池田忠雄に預けられたが、寛永10年(1633)に許されて1万石を与えられ、水戸藩主・徳川頼房(よりふさ)の家老となった。鮭延は佐倉藩主・土井利勝(どいとしかつ)に預けられたのち罪を許され、5000石で土井家に仕えたが、これは秀忠の口利きによるものだったという。

 

 最上家は義俊の死後、5000石に削減され、交替寄合(1万国未満で譜代大名の格を与えられた旗本)として明治まで存続した。

最上義光/AC

 

 

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京谷一樹きょうたに いつき

日本史とオペラをこよなく愛するフリーライター。古代から近現代までを対象に、雑誌やムック、書籍などに幅広く執筆している。著書に『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)、執筆協力に『完全解説 南北朝の動乱』(カンゼン)、『「外圧」の日本史』(朝日新書)などがある。

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