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朝鮮出兵の講和交渉で「裸の王様」ぶりをさらした秀吉は、明皇帝に忖度し「日本国王」になっていた!?

忖度と空気で読む日本史


晩年の豊臣秀吉の失政とされる朝鮮出兵。勝ったと思い込んでいた秀吉は、講和の席で明皇帝が自分を臣下にしようとしていることを知り激怒した、と言い伝えられてきた。しかし、実際は明の儀式に則って日本国王に封じられていた。秀吉は何に怒り、どうして交渉は決裂したのか。


 

■家臣に偽造された秀吉の降伏文書

 

 日本の歴史上、百姓から日本の支配者にのし上がったのは豊臣秀吉をおいてほかにない。能力主義の信長のもとで実績をあげて宿老の一人に連なり、主君の死後、10年足らずで日本全国の統一を成しとげた。だが、優秀な参謀であった弟・秀長を失った後は、千利休や豊臣秀次の切腹、明への軍事行動として行われた「唐入り」(いわゆる朝鮮出兵)など政権は迷走していく。

 

 唐入り自体は、天下統一前からの宿願であり、秀長が長生きしていたとしても防げたかどうかはわからない。ただし、前線の武将が独断で、日本の降伏を条件として和議を結んだにもかかわらず、勝ったと思い込んでしまうような「裸の王様」ぶりをさらすことはなかっただろう。国内統治を秀長に任せて、秀吉自身が唐入りに専念することもできたはずだからだ。

 

 確かに、緒戦は日本軍の圧勝であった。小西行長率いる第1軍の釜山上陸から3週間足らずで漢城(ソウル)を制圧し、小西はさらに北上して平壌を攻略。加藤清正は朝鮮の2王子を捕らえる殊勲をあげた。しかし、その後は李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍の反撃と義兵の決起、さらに明軍の参戦によって敗色が濃厚となっていく。

 

 こうした状況の中、明との講和交渉が始まったが、戦況を把握していない秀吉は、明の皇女を天皇の后にすること、日明貿易の再開、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮皇子の人質などを要求した。もちろん、このような空気を読まない要求が通るはずはない。そうと考えた小西行長は、秀吉が明に降伏を申し入れる「関白降表」を偽作し、日本軍の撤退と秀吉の冊封を条件として明皇帝と講和を結んだ。現実的な判断といえよう。

 

 こうして慶長元年(1596)、秀吉は大坂城に明使節を迎えたが、そこで初めて自身の望む条件が伝わっていないことを知って激怒し、講和は破綻するのである。

 

■秀吉、万歳三唱して日本国王に就任

 

 従来、秀吉が激怒したのは、明使が読み上げる誥命(こうめい、冊封文書のこと)に「汝を封じて日本国王となす」とあったためといわれてきた。これを聞いた秀吉は、「ドジョウひげ野郎に日本国王にされてたまるか」とののしり、文書を引き裂いたという。頼山陽の『日本外史』が伝える逸話である。

 

 冊封とは中国の皇帝から日本国王に封じられることで、形式的に皇帝の臣下になることを意味する。「日本の支配者である自分が、どうして明の臣下にならんといかんのだ」というわけである。秀吉のプライドの高さと、勘違いぶりを表すエピソードとして知られているが、実はこれ、事実ではない。明皇帝が発した誥命と勅諭が、現在に伝えられているからである。

 

 それどころか同時代人の証言によると、明使との対面の場で秀吉は、日本国王の金印を頭上に押しいただき、明の冠服を着て誥命を拝聴。さらに、五拝三叩頭(ごはいさんこうとう)して北京の紫禁城を遥拝(ようはい)し、万歳三唱したという。

 

 五拝三叩頭や遥拝は、中国側の史料に記されているものなので粉飾の可能性もあるが、金印を奉じたこと、冠服を着たこと、万歳三唱したことは対馬・宗氏の史料にあることから信憑性は高い。ちなみにこの時、秀吉に与えられた冠服も現存している。

 

 さらに、ルイス・フロイスの文書によると、明使との引見の夜、秀吉は副使の沈惟敬(しんいけい)の宿所を訪れ、「中国の国王が礼を尽くしてくれたので、その助言と判断に従う旨を返書に記さなければなるまい」と述べたという。

 

 つまり秀吉は、怒るどころかしっかりと皇帝に忖度し、明の儀式作法に則って日本国王に封じられているのである。

 

 ところがこの5日後、事態は急展開する。同じくフロイスの書簡によると、堺に下った明使は、秀吉の使僧の歓待を受けた後、「日本軍は朝鮮国内の陣営を撤去し、全面撤退すべき」と記された書状を託した。大坂城でこれを読んだ秀吉は、ようやく明側の真意を理解し、頭上に湯気が立つほど激怒したという。秀吉を怒らせたのは日本国王への冊封などではなく、倭城の破却と朝鮮からの撤退が大きな理由だったのである。

 

 結局、講和は決裂し、慶長の役が幕を開ける。戦いは秀吉が亡くなる慶長3年(15988月まで続いた。

 

 こうして、秀吉の「唐入り」は朝鮮の国土を荒廃させ、対日感情を悪化させたばかりでなく、戦況の長期化や作戦上の意見の相違から武将間の対立を生み、豊臣政権崩壊の遠因となるのである。

 

『豊公遺宝図略』では朝鮮人衣と紹介されているが、実際は明皇帝から送られたものとされる 京都大学附属図書館蔵

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京谷一樹きょうたに いつき

日本史とオペラをこよなく愛するフリーライター。古代から近現代までを対象に、雑誌やムック、書籍などに幅広く執筆している。著書に『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)、執筆協力に『完全解説 南北朝の動乱』(カンゼン)、『「外圧」の日本史』(朝日新書)などがある。

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